グリーン・ニューディール 環境投資は世界経済を救えるか
「グリーン・ニューディール」 環境投資は世界経済を救えるか
寺島実郎 /飯田哲也 2009/06 日本放送出版協会 新書 220p
Vol.2 No844 ★★★★★ ★★★★☆ ★★★☆☆
政治や経済の動きは日々めまぐるしく流動しており、ましてや、日米の政権が交代した2009年などは、後年になって振り返れば、明らかに大きな変換の年代であったという評価を受けるに違いない。オバマ政権にせよ、日本の民主党政権にせよ、意欲的に新境地を開こうとしているが、必ずしもアドバルーンとして挙げたマニュフェスト通りに物事が進んでいるとは言えない。
その中にあっても、かなり現実味を帯びてきているのが、このグリーン・ニューディール政策の一連の動きであろう。エコとか環境とか、あるいはCO2などと、さまざまな言い方はされるが、基本的には以前から叫ばれていた問題であり、それらの問題解決の糸口はあったのにも関わらず、革新の流れを押しとどめてきたのは、既得権益をまもろうとする保守的な潮流であった。
その保守的な流れから、「革新」の流れに変わったのだから、一連のグリーン・ニューディール政策は、より現実味を帯びていくのは当然だ。衰退していく産業やビジネスもあれば、新規に高騰してくる潮流もあろう。大きな変革期であることには変わりない。
寺島実郎は民主党の政策ブレーンとも言われており、片や飯田哲也は、環境工学エネルギー政策研究所を代表している科学者だ。それにNHKのクローズアップ現代のクルーが番組として取り上げる過程に生まれた本であるだけに、なかなか現実味がある。日本における政権交代は8月30日の総選挙であったので、その前の6月に出されたこの本は、少し抑え気味に書かれている。
よくよく考えてみれば、グリーン・ニューディールなどはごくごく当たり前の制作なのだ。いままで進まなかったのが可笑しいのだ。ひとりひとりの市民にエコな生活を押し付けるのも限界がある。産業、官僚、学問、揃って、現実味のある政策を作り、市民をリードしていかなくてはならない。そのタイミングは、ともすれば遅きに失していた感さえある。
言葉での表現はどうであれ、このような地球環境とともに共生していかなければならないのは、現代の地球人の宿命なのであり、現実化に当たっては、新たなる問題が次々に生まれてくるのは当然に予測できることである。しかし、多くの市民は協力するであろう。その時期や来ている。自分のことを考えても、考えられる範囲で協力を惜しまないだろうと思う。
と、ここまでは何の変わりのない、当ブログのいつもの論調なのだが、最近は、すこし思うところがある。先日、当ブログへのアクセスログ解析を眺めていて考えるところがあった。それをともあれ「当ブログ、想定外の『定番本』たち」その1としてまとめておいたが、闇雲に書き連ねている当ブログにおいても、明らかにアクセスされる頻度の高い記事にははっきりとした傾向性があることがわかったのだ。
当ブログは、科学、芸術、意識を三本柱として、それらが統合された世界を模索してきた。その三つは、具体的な職業で言えば、プログラマー、ジャーナリスト、カウンセラー、のようなものとして象徴させてきた。
現代における科学の粋といえばコンピュータであろうし、その現場で働く専門家をプログラマーという言葉で象徴しておいた。あるいは芸術という広いカテゴリーのなかにおいても、ジャーナリズムという文芸を広義の中の芸術の象徴としてきた。あるいは、意識については、「死」を扱えるカウンセラー、という象徴を使ってきた。
しかし、これらの三つのカテゴリの立て方は、あまりに多岐にわたっており、このまま散漫な読書を繰り返すだけなら、構いはしないが、何らかの終結点を見いだそうとするなら、ほとんど個人ブログとしての収まり具合は相当に拡散的なものになってしまうのではないか、ということが分かってきた。
たとえば、科学と言った場合、それはインターネットやITだけが科学ではないし、もちろ脳科学とか、あるいは、このたびのグリーン・ニューディールに採用されるような技術もまた科学的な研究の積み上げであるということができる。
しかし、当ブログは、そのような技術的な潮流に本当に関心があって、それらを追い続けることができるのだろうか、という疑問が湧いてきた。自ら主体的に研究しているわけでもなく、実行を率先してできるわけでもない。おざなりに他の人々と歩調を合わせていくのが精いっぱいなのではないか。
そのことは、煩雑を究めるジャーナリズムを芸術分野として追っかけてみたり、あるいは、意識の世界を、せまい意味でのカウンセラーに背負わせても、どこか貧弱で、もっと深いなにかまで下りていくには、まるで見通しが立たないのではないだろうか。
そんなことを漠然と感じ始めていた時に、上に書いたアクセスログ解析を見て、ここはかなり考えを改めなくてはならないのではないか、と考えるようになった。
いつもの当ブログらしく、とにかく手っ取り早く、ぶっきらぼうに言えば、科学はフロイト、芸術はヘルマン・ヘッセ、意識はグルジェフ、この三人にこの三分野を象徴させてみるのはどうだろう。とにかく、アクセスログは、この決断を支持してくれているのではないか、と思う。
フロイトは精神分析という「科学」を持って、意識・無意識の暗闇に切り込んだ。だが、フロイトは「科学」であろうとしたために、ある種の限界を残した。その限界は、後継者たちによって続々と開拓されているが、さて、その研究の最先端はどこまで進んでいるだろう。
ヘッセは、「シッダルタ」や「ガラス玉演戯」のような精神世界を題材にしたノーベル賞作家であり、そのヒューマニズム的な「芸術」は時代を超えて世界中に支持されている。そのライフスタイルは牧歌的でさえあり、孤高な芸術家のイメージは好感もてるものの、必ずしも「科学」的というものでもなければ、「神秘」の奥深く到達したものでもなさそうだ。
グルジェフは、いまだ世界中の探究者たちの魂を揺さぶる20世紀の最大級の精神世界のマスターであるが、生前、多くのことが知られることはなかった。ウスペンスキーなどの周辺で生きた人々によって次第に明らかにされては来ているが、しかし、グルジェフが到達した「意識」の神秘領域は、十分に指し示されているとは思えない。少なくとも、その教えには、ミッシング・リンクがある。
これら、三つの存在をつなぐキーワードは「魂」であろう。フロイトは「魂」を科学的に解明しようとした。ヘッセは「魂」を芸術的に高く歌い挙げた。グルジェフは「魂」の奥深くを探求し、その神秘領域をさらに広げた。このトリニティの中心に位置するキーワードこそ「魂」なのではないか。
もちろん、この三人のほかにもたくさんの人々が存在する。フロイトの他にはライヒやアサジョーリやアドラーやユングなど。ヘッセに先立つニーチェ、あるいはカミュやベケットやウィトゲンシュタインたち。グルジェフに至っては、ウスペンスキーやクリシュナムルティ、ブラバッキー、そしてOshoなど。列挙していったからキリはない。
しかし、今日、ここでメモしておきたいのは、当ブログは個人の読書ブログでありながら、ネットに公開している以上、そのアクセスログの動向にデリケートに反応して、あたかもクラウドソーシングの共同ワークのように動いていくことができるのではないか、ということ。すくなくともアクセスログは、このような方向展開を支持している、あるいは望んでいると言っても過言ではないのではないか。
つまりは、次第にインターネットや環境科学のような技術的なことや、政治経済、あるいは報道のような外側にあることからはすこしづつフェードアウトしていく必要があるのではないか。また、意識や神秘を、セラピーやカウンセリングといった狭い領域から解放して、もっとその無限性に遊ぶことが大事になってくるのではないか。そんなことを考えた。
グルジェフ&ウスペンスキーについては、一通り目を通したが、まだ、その書籍の存在を確認した程度で終わっている。ヘッセについても何冊か目を通した程度で、よまれるべき本はまだまだある。フロイトに至っては、すこし毛嫌いしてきたせいか、ほとんどまったく手つかずだ。
この三つの存在の本たちを新たに手に取り、あるいは再読していくことから、あらたなる展開があるのではないか。それは、いままでやりかけてきた「OSHOのお薦め本ベスト10(私家版)」や、いまだ再スタートできていない「東洋哲学(インド)編」の読み込みにつなげていくことができるのではないか。
当ブログのタイトルは「地球人スピリット・ジャーナル」ではあるが、はて、このジャーナルというタイトルはいつまでついてくることになるのだろう。そろそろ「地球人スピリット・プロジェクト」とでも変えてみようか、と思う時も最近ある。
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