ビヨンド・ザ・シークレット 「ザ・シークレット」の隠された「鍵」を解き明かす
「ビヨンド・ザ・シークレット」 「ザ・シークレット」の隠された「鍵」を解き明かす
アレクサンドラ・ブルース /中村安子 2008/06 ゴマブックス 文庫 284p
Vol.2 No842 ★★☆☆☆ ★★★☆☆ ★★☆☆☆
他にも「ザ・シークレットを超えて」という本を最近読んだばかりだが、どうやらこの「ザ・シークレット」という本は、全米でかなりヒットしたようである。本と言うか映画なのだろう。これらの本を読んでいて、なるほどそういう映画があったのかな、という興味は湧くのだが、それじゃぁと、手を出してその本を読んでみようとは、今までのところ、なかなか思い立てない。
それにしても、「ビヨンド」とか、「超えて」とかばかり言われていて、ちょっとかわいそうな気もする。方向性としては面白そうなのだが、どうやら途中でエンコしている風に見えてしまうのかも知れない。じゃぁ、どのように超えていくのか、というと、実は、これらのコバンザメ本の中においても、あまり明確ではない。
「ザ・シークレット」という本が話題になっているのは、「成功」したからであろう。つまりアメリカ的に言えばベストセラーになった、ということであろう。とにかく売れた。売れたという現象を持って、アメリカでは「成功」という。
アメリカで「成功」したのに、他の国々ではあまり売れていなさそうだ。イギリスやオーストラリアなどでも、必ずしも「成功」していない。さて、これら関連本も含めて、日本においてはどうだろうか。「成功」するだろうか。
まず、単体としての、この「ビヨンド・ザ・シークレット」という文庫本を見ると、正直言って、あまり素晴らしい翻訳とは言い難い。字句的な翻訳というより、この本は、日本向けに大幅に編集しなおされなければならなかったのではないだろうか。
この本を読む限りにおいて、アメリカと日本の精神世界、スピリチュアリティには、大きな隔たりができているように思われる。日本の精神世界は90年代中盤の、例の「麻原集団事件」を期に、かなりの長いトンネルに入った。事件全容が解明されるとともに、時間の経過とともに風化する部分ができてはきているが、しかし、あの事件を止揚する方向性もわずかながら、見えてきたようにも思われる。
アメリカは、その景気動向から考えれば、サブプライムローンのバブルの危うい経済サーフィンから叩き落ち、怒涛の波間に呑み込まれようとしていたタイミングだった。外側の動乱をなんとか解決するために、内面世界へと逃げ帰ろうとした動きもあったに違いない。そんな時、このちょっと「粗雑」(?)な「ザ・シークレット」なる映画やら本やらがヒットしたに違いない。
この本をパラパラとめくっていると、アメリカと日本の「精神的風土」の違いをいやというほど感じる。アメリカはやっぱり「キリスト教」をベースにしてできている国家形態だ。とくにこの本や「ザ・シークレット」などは、それを大前提として、作り上げられている。
しかるに、日本は世界に稀に見る非キリスト教的国家だ。グローバリズムの中にあって、日本的精神性はたしかに「島国」的なものからは解放されつつあるが、それでも、やはり一神教的な思想には、どうにも同調しない強情さというか、しなやかさがある。
いや、むしろ、これからのグローバル・スピリチュアリティでいえば、この「しなやかさ」のほうが、主流であると言える。つまり、「ザ・シークレット」の流れは、すこしマイナー過ぎる嫌いがあるようだ。つまり、伏水流のように、隠れていた保守的な精神性が、反動的に噴出しただけであって、いずれは、また水量を減らして大地に沈み込んでいくのではないだろうか、と思われる。
この本においては、ケン・ウィルバーが、最初と最後に、お飾りのように引用されているが、どうも、引用者の恣意的な姿勢が強く目立ちすぎ、誤引用しているとさえ感じられる。アメリカ文化の中では、最近にない話題を提供した形になったのであろうし、それぞれの立場から、それぞれの発言をしなければならない事態になったのだろうが、どうも、本当に画期的ななにかが「解き明かされた」ということではなさそうだ。
当ブログとしては、今のところ、ビヨンドする必要も感じないし、超えようというつもりもない。無視する、と言ったらあまりに失礼になるだろうから、それよりは、静観する、という表現をとったほうが紳士的な感じがする。
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