哲学者たちの死に方 The Book of Dead Philosophers<1>
「哲学者たちの死に方」 <1>
サイモン・クリッチリー (著), 杉本 隆久 (翻訳), 國領佳樹 (翻訳) 2009/8 河出書房新社 単行本: 372p 原書 The Book of Dead Philosophers 2008
Vol.2 No821 ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
当ブログは、ささやかながら自己流の「プロジェクトG.O.D」を掲げ、無手勝流に無鉄砲な試行錯誤を繰り返しているだけではあるが、時には、お、これは?と手ごたえを感じることがある。そんな大きな期待を抱かせるものがこの本にはある。
私たちが回避や逃避を陶酔的に欲望するのと極めて対照的に、哲学的な死の観念は酔いを醒ます力を持っている。キケロが書いているように、そしてこの感情は古代のほとんどの哲学において自明であり、後世の哲学においても繰り返されるのであるが、「哲学をするとは死ぬことを学ぶことである」。こうした視野に立ったとき、哲学の主な仕事は私たちに死への準備をさせることであり、死のためにある種の練習を、つまりあの世を約束しない霊魂消滅の恐怖に直面する---そして顔を背ける---私たちの有限性と向き合う態度の修練を提供することである。p9
この本にはおよそ190人の「哲学者」たちの死に方についての考え方やエピソードがまとめられている。ひとつの辞書のように使うこともできるだろうが、それはまるで一つの絵巻のように見ることもできる。しかし、もっとも大事なことは、読者自身が自らの死について問い、さらにそこから自らの生をどのように生きるか、を学ぶことである。
著者は、「チベットの死者の書」やティモシー・リアリー、あるいはタゴール、キューブラ・ロスなどに触れながら、この書が依って成るその立場を語る。
私は、このような手引きの疑う余地がないほど有益な治療的効果を否定したいのではない。死は適切な精神的準備で打ち勝つことができる幻想だという信念をそれらが養っていることについて、私は心配しているのだ。死は幻想ではなく、受け入れなければならない現実である。その上、私たちの存在が構造化されるべきであるのは、死の現実との関係においてであると私は主張したい。ひょっとすると現代社会のもっとも致命的な特徴は、この現実を受け入れたがらないことであり、死の事実から逃れることであるのかもしれない。p22
著者は本書をまとめるにあたって、オンラインの「ブリタニカ百科事典」アカデミック版をよく参照したという。ウィキペディアや、クラウドソーシングの力を借りることなく、格調の高さを維持したところが、また本書のトーンをさらにひとつにまとめている。その他、ポール・エドワードの「哲学事典」、「スタンフォード哲学百科事典」などを用いたという。
私はウィキペディアの荒れ狂う水流のなかにつま先を入れてみたり、時には膝まで入れてみたことを否定しない。それは膨大にしてどんどん増大している情報源であり、とてもむらがあって、常には信用ができないが、多くの興味深い項目と見出しでいっぱいであった。p351
中味についての読書はこれからボチボチスタートするところだが、読む前から、再読、精読を要すとメモしておこう。
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