現代フロイト読本<1>
「現代フロイト読本1」 <1>
西園昌久 監修 北山修 編集代表 2008/05 みすず書房 単行本 395p
Vol.2 No870★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆
ヘッセ側からフロイトへのラインの糸口は見えてきたが、さて、フロイト側からのヘッセへのラインは見えてくるだろうか。当ブログの「ログ・ナビ」における検索ワードは「フロイト 精神分析」であり、それ以上の一段深めた所への示唆はなにもないのだが、この際だから、すこしフロイトをキーワードとして、見知らぬ領域をすこし彷徨するのも悪くない。
ということで、一応は、「精神分析学の手引きブックガイド50冊」なるものを引っ張り出してきて、すこしづつその所在を確認しつつあるところだが、なにせ1998年の小此木啓吾編のガイドであり、いくぶん情報が古びており、もうすこし新し目のリストがないかなぁ、と物色中。もともとフロイトは古色蒼然としていて当たり前なのだが、やっぱり、どうせやるなら、情報は新しいほうがいい。
そんな当ブログの網に引っ掛かってきたのが、この本(全2冊)であるが、さて、どれだけ「現代」的であろうか。「読本」とはどういう意味であろうか。あるいは、どうして編集者たちはこの本に「現代」とわざわざ銘打ったのだろうか。
そもそもこの本が目に入ったのは、刊行されてからまだ1年半しか経過していないというタイミングと共に、編集代表に「北山修」の名前が見えたからであった。小此木ガイドにも、「きたやまおさむ」と「香山リカ」の名前は見えたが、個人的には「香山リカ」の本は、正直言って、さっぱり面白くない。大変失礼ながら、彼女の本は当ブログが読んだ本「ワースト10」のトップに置かせていただいている。
今回のこの「読本」のほうには彼女の名前は見えないが、もし彼女がいわゆるフロイト「派」であるがゆえに「面白くない」のであれば、これはなんらかの因果関係があるだろう、と当ブログ特捜班はスワ!新事実発見、と中腰になってしまうのだが、さてどうだろう。
さて、「読本」においては、「北山修」は編集代表である。北山は、当ブログにおいてまったくノーマークだった。ここに来てこの名前がでてくるとは、思いもしなかった。あの名前は、ほとんど「帰ってきたヨッパライ」と共に、天国に行ってしまった、と思っていた。
たしかに彼は医学者であり、あれだけの大ヒットを飛ばしながら、芸能人としての人生を生きることをよしとせずに、アカデミズムの中に消えていった存在だった。すくなくとも、一リスナー、一読者としての私の前からは消えたはすだった。
しかるに、ここに来て、北山修の名前がクローズアップされてきたことに、驚くやら、喜ぶやら、なんだかすこしこちらのやんちゃ心がくすぐられるのだった。だから、この本を選んだということは、フロイト追っかけというニュアンスとともに、北山修追っかけのニュアンスも含んできた、ということである。
すくなくとも北山修追っかけをすれば、この40年は俯瞰できることになる。しかも、そこにフロイト「派」が重なっていれば、当ブログとしては一石二鳥だ。一網打尽だ。と息巻いてはみたが、はてさて。
フロイトの読み方
どこから読んでもいい
私は、フロイトを、何からでも、どこからでも、読んでいいと思う。例えば、彼の若いときからの著書を順番に読むのもいいだろうし、最初は、精神分析の碩学や先達が参考文献として挙げているものや自分の関心から主題を限って読むのもいいだろう。
しかし私は、大量にある著書だから確かに迷うけれど、気が向いたところから、手当たり次第に、片っ端から読んでいいように思う。読む順番の自由、これは後からフロイトを私有化して読む者の特権である。縦に読むな、横に読むな、リニア(線的)に読むな。パーソナルに気ままに、そういう読み方をしていると、縦横無尽に拡がる「フロイト世界」が展開していくだろう。
Cを読んでJにいって、JからZを読んでからFを読む、というようなことでいい。裏表のある心の理解の場においては、そんな風に裏に行ったり表にまわったりしながら、自由連想的に読むのがいいと思う。心の世界は、決して物的現実における書物や地図のごとく二次元世界として広がっているのではなく、無数の次元で広がっているので、むしろシステマテッィクに読まないほうがよいのだ。p367 北山修
御節ごもっともであるが、もとより当ブログは、無手勝流の縦横裏表ハスがけ桂馬飛び、尻取り、深堀、散らかしっぱなし、なんでもありの読書を展開中ではある。フロイトだからと構えず、まぁ、ここは北山教授のレクチャー通りに進めていくことにする。
実用性や即効性を疑うこと
もはや現代は、フロイトの精神分析に熱狂的に飛びついて、フロイトを真に受けて、そして信じて裏切られていく、というような「フロイト・ブーム」の時代ではない。精神分析に関するそういう幻滅体験はすでにフロイト自身にもあったのである。そして1990年頃までは、世界のどこかでいつも起こっていたのだ。
例えば、数十年前のアメリカには、フロイトこそが未来を保証すると信じた人たちがいただろう。あるいは、1970年のパリで、そして1990年の南米で、さらには日本でもそういう即効性や実用性の期待が集団発生したかも知れないが、今や、フロイト著者について「訳に立つ」という言説は頭から疑われていると思う。すでに多方面でフロイト自身の病理、神経症、偏り、というものが論じられている。
それでも、精神分析は胸を貸す形でその批判を受け止めることができていて、だからこそ、今世紀になって後から読まれるフロイト読者は、実用性や功利主義に振り回されないでいられるのだ。今では、甘い夢は抱かずに、冷静に、そして落ち着いてその知恵から学びながら、自分の居場所で読めると思うのだ。p367 北山修
いきなり文頭から全文転記してしまったが、まさに当ブログの現在の心境とそれほど変わりはない。ここまで冷めてみている北山修、侮るべからず。
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