現代フロイト読本<2>
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「現代フロイト読本2」 <2>
西園昌久 監修 北山修 編集代表 2008/07 みすず書房 単行本 p403
Vol.2 No871★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆
この本、二冊組の本なのだが、内容は多数の研究者陣によるオムニバスになっており、それこそ読む順番は、読み手側の自由に任されているし、ページ数の付け方も、二巻目は一巻目の終わりの数字を継ぐようにできているので、一冊の本であるかのように読むことにする。
ここ数十年間、日本では「フロイト著作集」(人文書院)全11巻が現実的な代表的な翻訳である。第一巻p382 北山修
小此木啓吾選「精神分析学の手引きブックガイド50冊」は、伸びきった蕎麦か、冷めたピザのような雰囲気がないではないが、その中心となっている人文書院の「フロイト著作集」が「現実的な代表的な翻訳」というのであれば、ここから読み始めるのがいいであろう。とくに小此木は必ずしも巻数どおりの順番には並べていないので、なぜその順番にしたのかも、考えながら進めていくのがよかろうか。
北山は二巻目でも書いているが、いまいち面白くない。なぜなのだろう。食材があって、シェフがいて、食べる客がいるとする。北山シェフの腕はまずまずとするならば、まずいのは食材か、客か。
フロイトは、食材としてはどうなのであろうか。新鮮な朝どりの産地直送の野菜なのだろうか。よもや、ブランドばかりが先行した偽装食品に成り下がっているのではないだろうに。フロイトを食べに来る客とは、誰か。一体、今時、フロイトを食べて、どうすると言うのか。センスを疑ってしまうのである。
偽装食材と、センスのない客、その二つに挟まれた、ちょっとは名の売れたシェフ=北山修、という構図を考えてみる。その時、最近の私が、ちらちら思うことがある。かなり誤解を招きそうな物騒な思いである。「加藤和彦を殺したのは北山修なのではないか」。当ブログの読者はどう思うか。
北山修ばかりか、加藤和彦についても、ほとんど何も知らない。「帰ってきたヨッパライ」のあと、北山はアカデミズムの中に逃げ込み、加藤は元祖ロック(?)歌手として、サディステッィク・ミカ・バンドなどを率いていた程度のことしか知らない。その加藤は、いろいろ新しいことを試みながら、結局は自死という道を選ぶ。
傍らに、ひとりの親しい精神分析家がいながら、自殺していく初老の男。こういう構図は、別に今回の彼らにばかり当てはまる構図ではないが、しかし、どちらにも納得のいかない、何かが残るのではないだろうか。私もカウンセラーとして長く関わりを持っていたひとりのクライエントの自殺に出会ったことがある。他人事ではない。
もし、あの時、あそこで、こんなことを、ああすれば・・・・、という思いは今でもぶり返す。だが仕方ない、手の届かないことだったのだ、と諦めかけたりもするが、しかし・・・。
もし北山修が心理学者になるとしても、フロイト「派」ではなくて、もっと脱フロイト的な、もっともっと「現代的」な、ラジカルな、超過激な心理学者になって、加藤和彦のミュージッシャンとしての活動にダイレクトにつながるような活動家であったなら、ひょっとすると、加藤の晩年も、もっと違ったものになったのではないか。
「ちょっとは腕のいい」シェフ北山は、食材の選定に失敗し、取るべき客を間違ったのではないか。21世紀に、メインディッュに「フロイト」を出すような、崩れかかった老舗レストランの板場で、北山修は、本当は、自分こそが精神分析にかかりたい、と思っているのではないか。いや、もう彼は「フロイト 精神分析」など信じていない。
北山と加藤が、あれからどんな親交を続けてきたのかまったく知らない。勝手な妄想だ。妄想とはちょっと遠慮した言い方だ。自由連想だ。ミュージッシャンと心理学者(しかもフロイト派なら)に対してなら、「自由連想」も許してもらえるだろう。(彼の冥福を祈りながら)
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コメント
>「絶対に死なない」
>「約束を破ってごめんなさい
う~ん、やっぱりそうであったか。
投稿: Bhavesh | 2009/12/22 08:13
北山は加藤と約束していました。「絶対に死なない」と。だから加藤が北山に宛てた手紙の冒頭は「約束を破ってごめんなさい」でした。
投稿: | 2009/12/22 07:40