シッダールタ<3> ヘッセ
ヘルマン・ヘッセ /日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会 2007/12 臨川書店 全集・双書 382p
「シッダールタ」 <3>
自分の中では、このヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」と「かもめのジョナサン」をダブらせて読んでいたところがあった。ジョナサンを読むときにはヘッセを思い出し、ヘッセを読むときにはジョナサンを思い出していた。しかし、今回あらためて読み直してみて、とくに二部を読みながら、「かもめのジョナサン」の解説にあった、五木寛之の言葉が妙に脳裏に浮かび上がってきた。
第二章、第三章と、後になるにしたがってユーモラスなところが少なくなって行くのも奇妙な感じだし、奇妙といえば、この物語の中に母親を除いてただの一羽も女性のカモメが登場しないのも不思議である。後半では完全に男だけの世界における友情と、先輩後輩の交流だけが描かれる。食べることと、セックスが、これほど注意深く排除され、偉大なるものへのあこがれが上から下へと引きつがれる形で物語られるのは、一体どうしたことだろう。五木寛之「かもめのジョナサン」解説 p137
そのジョナサンの世界に比較すると、ヘッセのシッダールタの世界は、とくに二部においては、カマラーとの林苑での生活の描写は、ともすれば、型どおりのゴータマ・シッダールタ=仏陀のイメージからはすこし離れれているように思われる。もっとも出家前のゴータマ・シッダールタにも似たような生活があったはずであり、その清浄なイメージと共に、煩悩の極みのごとく語られることが多くある。
なにはともあれ、全集のなかの「シッダールタ」を読めたことは幸いであった。当ブログにおける「シッダールタ」探索は、この小説ひとつを読めば済むはずなのである。ではあるが、もうすこしヘッセ追っかけの旅はつづく。「荒野の狼」や「東方への旅」を読んだあと、今回の追っかけとは別な意味で、全集の中の「ガラス玉遊戯」をゆっくり読んでみたい。そして、全集としてのエッセイにもチラチラ目をやり、残るフォルカー・ミヒェルスの編集本を何冊かめくったあと、もういちど、全集の細かい編集記事などを第一巻から順を通じて目を通してみたい。
小説そのものは大まかな代表作だけに止まるが、これでまずは「ヘッセ」全体の輪郭だけは見えてくるはずである。
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