完訳バガヴァッド・ギーター <3>
「完訳バガヴァッド・ギーター」
鎧 淳 (翻訳) 1998/04 中央公論社 文庫: 270p
Vol.2 No861★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆
ヘッセはその小説「シッダールタ」の中の幼なじみの親友の名前ゴーヴィンドを、このバガヴァド・ギーターから取ったとされる。なにもヘッセを持ちださくても、インド文化における長編叙事詩「マハバーラタ」の中の、ビシュヌ神やクリシュナが活躍する最もキモな部分が、この「バガヴァッド・ギーター」とされている。
ましてやこの文庫本は「完訳」と銘打たれているので、長年この文献に携わってきた研究者によるサンスクリット原典からの訳し下ろし、ということだから、これを読まずして、何を読むのか、という気分にはなる。
しかしながら、インド人ならず、古典文献に必ずしも強い愛着もなく、その文献の位置づけについても、特段の素養のない身としては、正直言って、なにがなにやらよくわからん、というのが正直なところである。
にも関わらず、当ブログへのアクセス検索ワードの重要な位置にこの「バガヴァッド・ギーター」があってみれば、無視できないのはもとより、長期に渡って、細く弱いその糸をすこしづつ手繰り寄せていかなくてはならない、と思う。
純性、激性、暗性の(三重の)素因は物質より生じ、不滅の霊魂を、強弓の精兵(つわもの)よ、肉体に繋縛す。p154
さぁ、いきなりこのような文言にぶち当たっても、なにがなにやら、どこからどう手をつけて行ったらいいか当惑するだけだ。だが、糸口は必ずやこの辺にあるに違いない。
純性---「サットヴァ」。物質を組成する三重の素因の第一で、光明、明知、喜悦をその作用、特徴としている。 p17
激性---「ラジャス」。物質を組成する三重の素因の第二。激力で、拡張の性質をもつ。p15
暗性---「タマス」。物質を組成する三重の素因の第三で、暗黒、暗愚、愚鈍、無知の性質をもつ。p11
素因---「グナ」。資源的物質原理プラクリティ中の構成因で、純正、激性、暗性の三重の基態を区別する。p18
この本、巻頭には「固有名・事項等について」として用語集がついている。固有名詞以外はほとんどが漢字に翻訳されているが、多少はカタカナを残し、サンスクリットの雰囲気を残してもらったほうがいいかもしれない。
とくに、このサットヴァ・グナ、タマス・グナ、タマス・グナ、などは、何か他の文献で慣れてしまっている読者にはイメージがそこから繋がっていくこともあるのではないだろうか。
Oshoは、どこかでこの三つのグナを、21歳の時にエンライトメントしてからの怠惰な日々を過ごした時期、30代になって講演旅行をして回った時代の時、そして、40代にプーナに止まりほとんど隠者のようにくらし始めた時期を、三つのグナに例えて説明したことがあった。(いや時期は違っていたかもしれない。どこかでその言を見つけたら、あとでここは修正する)。いずれにせよ、この三つのグナが曲者なのである。
この三つのグナをたとえばヘッセの「シッダールタ」のストーリーの中に求めるとするとどうなるだろうか。いろいろ考えてみたが、まだ落ち着いた解釈はできない。もともとヘッセがそのように意図して書いたわけでもなかったかもしれないが、もし、ここをもっと意識して書いていたとすれば、もうすこしスッキリした小説に仕上がった可能性もある。
アートマン---「自己」。人間、生類の体内に存する個々の霊魂、および全一の世界霊、宇宙霊。p9
オーム---本来、何を意味するか不明、聖なる音節として、ヴェーダ祭式やその学習等の際、初めに発声される。p13
オーム、タト、サト---”オーム、それ、存在”の意で、聖なる音節とされる。p13
クリシュナ---ヴィシュヌ神の化身で、ギーターでは、戦車の御者として、アルジュナ王の子に付き随っている。p15
ゴーヴィンダ---クリシュナ、またはヴィシュヌ神のこと。p16
涅槃---「ニルヴァーナ」。”熄滅”の意。全一、最高の実在なる梵への帰入、帰滅。p20
梵---全一、唯一の非人格的、霊的存在で、万物の本源。全宇宙の最高の実在原理。p22
ヨーガ---”訓練された行為”、また、一定の方法に基づいた緊(ひきし)め、練成”の意味。p23
なるほど、この用語集からいくつかの記憶おぼろげな単語を拾い出して確認してみると、どこから手を出していいやら途方にくれそうな「バガヴァッド・ギーター」ではあるが、必ずしも理解不能な世界でもなさそうだ。少なくとも、この文庫本に収まる程度の量的世界であれば、一通り文字面だけでも目を通すことは可能だろう。
ギーターは、ときに論調を異にするいくつかの教えを含んでおり、論旨が、つねに一貫しているとは限らない。一部については、明らかに、後代の付加・竄入に起因するといってよいであろう。とはいえ、全体として見れば、矢張り、ウィルヘルム・フォン・フンボルトの説くように、それは「題材を一定の方式で配列し、教えの末尾に至るまで、精緻な観念の連鎖を組み立てるような学派的訓練を受けた思想家ではなく、溢れる知識、湧き出る感情から、心の赴くままに詠い上げた詩聖」の口から迸りでたもの、とするのが正しいであろう。p256「解説」
なにか、ひとかたまりの哲学を学ぶような姿勢ではなく、一連なりの詩を味わうようなものだとするなら、それはそれ、当ブログとて、この詩集に触れることは不可能ではない。
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