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2009/12/04

クヌルプ ヘッセ

クヌルプ (新潮文庫)
「クヌルプ」 
ヘッセ (著), 高橋 健二 (翻訳)1970/11 新潮社 130p
Vol.2 No849 ★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 クヌルプは言った。「人間はめいめい自分の魂を持っている。それをほかの魂とまぜることはできない。ふたりの人間は寄り会い、互いに話しあい、寄り添いあっていることはできる。しかし、彼らの魂は花のようにそれぞれその場所に根をおろしている。どの魂もほかの魂のところに行くことはできない。行くのには根から離れなければならない。それこそできない相談だ。花は互いにいっしょになりたいから、においと種を送り出す。しかし、種がしかるべき所に行くようにするために、花は何をすることもできない。それは風のすることだ。風は好きなように、好きなところに、こちらに吹き、あちらに吹きする」p64

 「その男ゾルバ」がニコス・カザンザキス作のひとつの人物像だとすると、「クヌルプ」はヘッセがつくった象徴的なひとつの人物の典型だ。放浪者とか、ボヘミアンとか、根なし草とか、いろいろ当てはめてみるが、ぴったりした言葉はない。クヌルプはクヌルプだ。いまなら、ヒッピーとか、フリーターとか、近そうなイメージを考えてみるが、どれもあてはまらない。

 ヘッセのこの小説が書かれたのは、1908年。ヘッセ30歳の時。「郷愁」「車輪の下」の青春の彷徨から、次第に離れ、「シッダルタ」「ガラス玉演戯」などへ昇華していく前の、青年としてのヘッセの、若々しいが、淡い存在としての一つの人間像が描かれている。

 当ブログは、現在、フロイト、ヘッセ、グルジェフのトリニティについて考えている。ヘッセは、フロイトやユングゆかりの精神分析家によって精神療法を受けたことがあるという。その成果は小説「デミアン」に著されているという。逆に、ヘッセは別なところで「ヤーコブ・ベーメの召命」を描いている。こちらは、ヘッセとグルジェフの間あたりに位置するものか、と思案中。だとするなら、フロイトとグルジェフをつなぐ間に存在するのはウスペンスキーあたりか。

 そんな全体像を考えながら、ヘッセその人の人物と作品の流れを考えてみる。ヘッセは30代にしてインドに旅している。それは「インドから」の一連の手紙に表現されているが、この旅がいずれヘッセに「シッダルタ」を書かせるきっかけのひとつになったことは間違いないだろう。

 「いいかい」と神さまは言った。「わたしが必要としたのは、あるがままのおまえにほかならないのだ。わたしの名においておまえはさすらった。そして定住している人々のもとに、すこしばかり自由へのせつないあこがれを繰り返し持ちこまねばならなかった。わたしの名においておまえは愚かなまねをし、ひとに笑われた。だが、わたし自身がおまえの中で笑われ、愛されたのだ。おまえはほんとにわたしの子ども、わたしの兄弟、わたしの一片なのだ。わたしがおまえといっしょに体験しなかったようなものは何ひとつ、おまえは味わいもしなかったのだ」p116

 ヘルマン・ヘッセ追っかけを再スタートしたところだが、その作品はたくさんありすぎて、どうも収拾がつかない。まぁ、気になるところから順不同でつまみ食いを続けていくしかないかな。当ブログでの集約点は「シッダルタ」になるのだろうが、個人的には「ガラス玉演戯」は何度でも読んでみたい。それにしてもコスモポリタン、ヘルマン・ヘッセの作品はシンプルではあるが、数的には膨大にある。絵も素晴らしい。

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コメント

suganokeiさん
ヘッセは、日米において、もっとも多く読まれているヨーロッパの作家だそうですので、みんなそれぞれの読み方がありそうですね。
ヘッセ自身も、自分の作品の中では、この「クヌルプ」が最も好きだと、どこかの書簡集に書いていたと思いました。

投稿: Bhavesh | 2009/12/11 16:21

ヘッセは「シッダルタ」「荒野の狼」そして「クヌルプ」しか読んでないのですが、「クヌルプ」はすがすがしい諦念が感じられて好きな作品です。

投稿: suganokei | 2009/12/11 14:42

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