愛の犠牲 ヘッセ
「ヘルマン・ヘッセ全集(第5巻)」 物語集3(1906ー1907)
ヘルマン・ヘッセ /日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会 2006/12 臨川書店 全集・双書 : 374p
Vol.2 No878★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆
「愛の犠牲」
この第五巻には、たくさんの物語が詰まっている。ほんの短期間の間に、よくこれだけの物語が書けるものだと、大文豪に対して、頓珍漢な感想を持ってしまった。なにはともあれ、もう大略的なヘッセのアウトラインはつかんだことだし、全集の中にもこのような巻も含まれているのだ、ということが分かればいい。
とそんな気持ちで、なにはとあれ、最初のページだけでもめくってみようかな、と思った。「愛の犠牲」。ところが、これがなかなか面白い。いつものヘッセらしい、なぜこの文章=物語が存在しているのか、という意義を押し出しながら、こちらの心の隙間に、見事に入り込んでくる。
わずか5~6ページほどの文章なのに、ついうっかりヘッセの世界にはまりこんでしまう。いやぁ、5~6ページの文章でよかった。これがもっと長い文章だったら、最後まで読んでしまいたくなったに違いない。まんまとヘッセの手に落ちる。気をつけなければ・・・(笑)。
つづく、「恋愛」、「ある青年の手紙」、「別れを告げる」などなども、読み出したら、止まらなくなるだろう。ここは、敢えて読まないでおこうと思う。なぜなら、当ブログは、ヘッセの世界にどっぷりつかるのは、まだちょっと早いからだ。
今日、クルマを運転したり、近くまで歩いたりしている時に、頭の中をぐるぐる回っていたのは、当ブログの次なるステップについてだった。ヘッセは、まもなくアウトラインをなぞり終わるだろう。その次はフロイトだ。しかしフロイト追っかけは、どうやら北山修追っかけと同時進行になりそうだ。
そして、小説家=詩人=芸術家としてのヘッセのことを考えながら、「1Q84」の村上春樹のことを考えていた。ヘッセはすでに、過去の大芸術家で、全集が何度も改訂されるような大御所だ。しかし、それはすでに出来上がっている世界だ。もうすこし、新しい現在進行形の世界につながっていかないのか。そういう意味では、当ブログにおけるヘッセの後継者を村上春樹にしたらどうだろう。
ノーベル賞作家としてのヘッセは、ちょうど百年前、これらの作品を書いていた。もちろん、未来が開けているなんていう保証はなにもなかった。村上春樹も、将来はどうなるかわからないが、明らかに期待されている現代の作家であり、ひょっとするとノーベル賞をもらうかもしれない。それだけの評価を各方面から受けている。
ヘッセ→春樹、フロイト→北山修、と来たときに、私の頭の中では、はて、それではグルジェフの後継者は誰になるだろう、と、考えが渦巻き始めた。いろいろ翻訳した人たちや、似たような活動をした人をいろいろ考えてみた。
で、結局、思いついたのは、ケン・ウィルバーだった。もちろん、グルジェフは光明を得た存在とされており、またマスター稼業をした存在だ。ウィルバーは、たしかに現代の切れ味抜群の理論家ではあるが、かならずしも光明を得た存在という評価をされてはいない。もちろん、自分からそのような表明をしてもいない。
しかしながら、例えば、グルジェフにおけるウスペンスキーのような立場とケンウィルバーを比較してみるのはどうだろう。たしかにウスペンスキーもケンウィルバーもクレバーな人たちである。時代切っての理論家だ。
ウスペンスキーにおけるグルジェフのような立場を、例えばケン・ウィルバーにおけるチョギャム・トゥルンパにしてみたらどうだろうか。なかなか良い思いつきのようでいて、はてあまりにもこじつけになるかもしれない、と一人で考えながら、笑ってしまった。
フロイト--ヘッセ--グルジェフ、という当ブログのグル・ナビによるトリニティを一歩進めるには、北山修--村上春樹--ケン・ウィルバー、という新しき現代のトリニティを想定してみる必要があるのではないか。彼ら三人ともたしかに戦後生まれのベビーブーマー、団塊の世代の生まれではある。若くして時代とともに表現し、生きてきた存在たちではある。
あたらずとも遠からず、この現代的トリニティをおっかけてみる価値はありそうだ。などと、思っていたのだが、どうも一人だけアメリカ人、というのもおかしくないか、と思い始めた。彼のような存在として他にいないのか。ちらちら考えてみたら、いたよ、中沢新一という人が。
もちろん中沢もまた光明を得たという評価はないし、マスター稼業を背負っているわけでもない。しかし、彼のチベット密教の師をその立場におけば、なるほど、ウスペンスキーと同じような立場になれない、というわけでもなさそうだ。
北山修--村上春樹--中沢新一・・・・ですか・・・・。なかなかおもしろそうでいて、なんか妙だなぁ。と、まず、今日のところはまとまりがつかなくなった。
そんなわけで、こんな浮気な心で、ヘッセの美しい小説を読むべきではない。ヘッセはヘッセ。なにごととも比較されずに、味わわれる必要がある。この第五巻の小説たちも、いずれゆっくりと味わいたい。比較されたり、分析されたり、解説されたりすることは、必ずしも小説や詩の目的ではない。それらは純粋に味わわれる必要がある。
そんな日が遠からずあることを願って、とりあえず、この巻をいったん閉じておく。
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