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2009/12/16

ウィトゲンシュタイン  「私」は消去できるか

ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか (シリーズ・哲学のエッセンス)
「ウィトゲンシュタイン」 「私」は消去できるか (シリーズ・哲学のエッセンス)
入不二 基義 (著) 2006/05 単行本: 126p 日本放送出版協会
Vol.2 No862★★★★☆ ★★★★★ ★★★★☆

 思えば、ちょうど40歳のヘルマン・ヘッセが「芸術家と精神分析」を書き、ユングの精神分析を受けていたころ、かたや30歳のウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」を書き終え、その出版の機会をうかがっていた。出版されたのは、1922年、まさにヘッセの「シッダールタ」が出版されたのと、同じタイミングだった。

 「論理哲学論考」は、当ブログにおける読者からのリクエスト=アドバイス、あるいは読者ナビゲーションとも言うべき指標のなかでも大きく輝いている。日本においては、新潮社文庫で1916年(大正5年)フロイト「精神分析入門」、1919年モーム「月と六ペンス」、1923年井伏鱒二「山椒魚」が出版されていた頃の話だ。

 ウスペンスキーは1915年にグルジェフと出会い、1924年にはロンドンでの講義において決別宣言をしたということだから、まさにグルジェフ&ウスペンスキーの蜜月時代がこの1920年前後にあったということになる。1911年、神智学協会の会長であったアニー・ベザントは、クリシュナムルティを長とする教団を設立した。もっともクリシュナムルティは1929年にその教団を解散させることになるのだが。

 1910年にフロイトは「国際精神分析学会」を創立し、その初代会長にユングを就任させた。1912年には訣別(フロイト56歳、ユング37歳)し、1914年にはユングは国際精神分析学会を脱退した。つまり、1918年にユングの精神分析を受けたとされるヘッセは、すでにフロイトと決別したあとのユングと出会っていたのである。

 世界中の「哲学者の哲学の息の根を危うく止めようとした」ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」はこのようなタイミングで刊行された。このような時代、まさに20世紀的精神世界の台頭、動乱期において、このまま、「私」が消滅するわけにはいかなかったのか。なぜ、そうならなかったのだろうか。

 この本「ウィットゲンシュタイン」の序章で著者の入不二基義はつぎのように書いている。

 大乗仏典の一つ「維摩経」の第八章(入不二法門品)では、「不二の法門に入る」(さとりの境地に入る)とはいかなることかについて、議論が展開されている。31人の菩薩(修行者)たちとマンジュシュリー(文殊師利)が、主人公の維摩(ヴィラマラキールティ)の前で、それぞれ自説を述べる。ちなみに、私の姓「入不二」は、この箇所に由来する。p11

 1920年前後において、世界の哲学者の息の根がとまり、世界中が「入不二」してもおかしくない時代があった。なぜ、そうならなかったのかについては、もうすこし掘り下げていかなければならないが、そこにはナチズムの台頭があり、帝国化する列強の動きの影響があったことは間違い。ニーチェからナチズムにいたる系譜については、いずれは当ブログでも探索しなくてはならないが、地雷多き道をおっとり刀で漫歩するのは、かなり危険だ。せいぜい「謎の地底王国アガルタ」などで、トンデモ世界というタグでも貼って、傍らのストック棚に放りこんでおくのが精いっぱいだ。

 ウィットゲンシュタインについては、もうすこし時間を取って、体系的に追っかける機会もあることだろう。今は、フロイト--ヘッセ--グルジェフ、という当ブログの20世紀的精神のトリニティの把握と超越に向けての位置づけを確認しておくにとどめる。

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