ウィトゲンシュタインと精神分析
「ウィトゲンシュタインと精神分析」
ジョン・ヒートン /土平紀子 2004/12 岩波書店 サイズ: 全集・双書 121p
Vol.2 No864★★★★☆ ★★★★★ ★★★★★
探してみればあるものだ。この本はなにより、お手軽なイメージを持っているのがとてもいい。厚紙のハードカバー本ながら、わずか121ページほどの分量でなおかつ、本文はその半分近くでしかない。しかし、当ブログが現在迷い込んだ不思議世界で、「君はなにをお探しかな?」と、聞いてくるウサギのようだ。
ウィトゲンシュタインは、「フロイトの弟子」を自称p101していたが、さまざまな点においてフロイトとは違っていたし、またフロイトの重要な点についても批判的であっった。
フロイトは近代の申し子だったので、神経症患者を診た経験があるにもかかわらず、問題を解決する方法は知識を蓄積することだと主張した。科学者を自認する彼は、無意識や、神経症を引き起こす精神のさまざまななメカニズムを「発見」することによって、自分は知識の増大に貢献したと思っていた。たしかに彼は、さまざまなタイプの人間の苦悩を取り除くための知識をプロデュースする一大産業を創出した。だが、知識は人を欺く。p045「知識」
フロイトは精神分析学のフロンティアであることは間違いないが、すべてフロイトで解決できるような21世紀ではない。むしろ、前時代的遺物として、多少の冷笑の対象にすらなっている。著者は精神療法士、R・D・レインとも共同で活動したことがあり、「ヴィトゲンシュタイン」(心交社)などがあるという。
理論を形成するにあたてフロイトは、科学主義のイデオロギーを表明するいくつかの想定をした。科学主義とは、科学の外側に立ち、科学をひとつの総体とみなすことを主張する立場で、科学だけが説明と真実の唯一正当な形式であることを前提としている。その主な特徴は、還元主義と決定論である。p057「理論」
現在同時追っかけをしているヘッセが自らを「詩人」あるいは「芸術家」である、と強く規定するに比較して、フロイトは自らを強く「科学者」であると主張し、その立場にこだわったあたり、なかなかの鮮やかな対比がうかびあがる。
フロイトもウィトゲンシュタインも、どちらも儀式や神話に関心をもっていたが、その理解のしかたはまるで違っていた。フロイトは科学こそ知識の優れた形式であると見なしていたので、儀式と神話を間違ったものとして検証した。(中略)ウィトゲンシュタインは用心深かったせいもあって、ただ事実を描写して公平に扱うにとどめ、普遍的な人間性なるものがあるとする現代的な信念に基づいて説明するのを避けた。p074「儀式」
まぁ、フロイトの方が面の皮が厚く、ウィトゲンシュタインのほうが、よりハニカミ屋であった、ということであろう。
フロイトもウィトゲンシュタインも、どちらも「自己」を理解することを心底願っていた。そして精神分析には、それに関する膨大な文献がある。だが、この二人は、いかにもこの二人らしいのだが、まったく違う方法でこの問題に取り組んだ。p070「自己」
さて、ウィットゲンシュタインは、科学者であったのか詩人=芸術家であったのか。
ウィトゲンシュタインは哲学を治療の技術と考えていたが、本人にも、けっこうおかしなところがあった。「特性のある男」として彼の奇行は有名だ。(中略)
このウィトゲンシュタインは、天才の病跡学の視点から、しばしば前期の「論考」をめぐって分裂病(統合失調症)との関連で語られてきた。(中略)
後期の「探究」のほうが、ずっと実用的で、栄養もある。p113丘沢静也
巻末には丘沢の「読書案内」がついている。ウィトゲンシュタイン追っかけを続けるなら、このリスト&評論は「実用的で、栄養」がある(笑)。
ウィットゲンシュタインで一冊、というと、後期の「哲学探究」だ。「探究」のなかにウィトゲンシュタインの最良のものがたくさん詰まっている。118p丘沢「読書案内」
しかるに、当ブログにおける「ログ・ナビ」はひたすら「論理哲学論考」を指し示し続けている。ヘッセにおいては「ガラス玉演戯」ではなくて「シッダールタ」であるように、ウィットゲンシュタインにおいては、ひたすら「論考」ということになるのだろう。
心理学、というジャンルでみるなら、ユングもありライヒもあり、アサジョーリもあるはずなのであるが、当ブログの「ログ・ナビ」はひたすら「フロイト 精神分析」を指し示し続ける。こうしてみると、現在のところの「ログ・ナビ」様は、統合された整合性のある「栄養」的に勝ったものよりも、多少の不完全性を抱えていたとしても、突破口を切り開くようなインパクト力の強い象徴的な存在がお好きなようだ。
なるほど・・・・。ただ、これは当ブログが提示した「メニュー」の中から「ログ・ナビ」が指し示しているだけなのである。逆にいえば、これまでのところの当ブログは、あちこちの興味深いテーマについて、そのゲイトまでは来ているが、そこから深く入って細部にわたる「メニュー」を提示していない、ということを単純に照明している形になるかもしれない。
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コメント
ジャック・ブーヴレス「ウィトゲンシュタインからフロイトへ」にも、そのいきさつがあるようですね。http://terran108.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-ece7.html
投稿: Bhavesh | 2010/02/09 08:53
フロイトの弟子を自称していたという指摘は眉唾ですね。
投稿: | 2010/02/09 00:28