幻滅論 北山修
「幻滅論」
北山修 2001/04 みすず書房 単行本 253p
Vol.2 No891★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆
これは何のための本かを一言で言うなら、私自身の悩ましくも楽しい旅の記録であり、それに公共性を付与するべく、人生におけるいくつかの不幸に強くなるためにという思いでまとめた本だ。具体的には、この十年くらいの間に錯覚と幻滅の精神分析に関して書いたエッセイや論文を、書き直して一冊に集めたものである。元は、臨床で人の不幸や悲劇を取り扱う専門家に対して書かれたものではあるが、そうでない人にも読んでもらえることだろう。p249「あとがき」
この人はいよいよ、まとめたり、書き直したりすることがお好きなようだ。それにしても、この「十年くらいの間」に書いたものを「まとめた」わりには、つまり「失われた90年代」をソーカツしているわりには、バブル崩壊もでてこないし、インターネットも、阪神淡路大震災も、麻原集団も、グローバル化も、環境問題もでてこない。ひたすら「私自身の旅の記録」であるようだが、はて、当ブログのこの「私は誰か」カテゴリでいうところの「私」が書かれているとは、ちょっと思えない。これに「公共性」を付与することに、どれだけの意義があるのか、現在の私にはわからない。
私自身は広い意味でいうと「臨床で人の不幸や悲劇を取り扱う専門家」の一人でもあるが、また「そうでもない人」も読んでかまわないということだから、決して読者層のターゲットからははずれてはいないだろう。「ジャーナリストと精神科医の仕事はよく似ている?」とまで思いを逡巡させる人なのに、この同時社会性の欠如は、ただごとではないという気がしてきた。
いくつかの名前を使い、いくつかの社会的立場を活用し、持てる才能を多方面に発揮しながら、生きてきたこの著者とは一体誰なのだろう・・・。この人はどこかで70年前後の社会的枠組みの中で、ひとつのパラダイムにはまってしまい、そこから脱却しないで、一生を終えようとしているのかもしれない。
狙い目どうり「フロイト 精神分析」を、現代的日本風にとらえるとすれば、この人物は価値あるし、ひょっとするとこの人を抜きには進まないところもあるかもしれない。しかし、それはどこか逃げ道にすぎないのではないか、と強く思う。問われるべきは「フロイト 精神分析」でもなければ、「現代日本」でもない。問われるべきは「私」だ。
この人の自家撞着、ナルシズム、あるいは身勝手さは、彼の持て余すほどの才能と社会的環境によって、限りなくカバーされているが、実は相当に悲劇的なものではないか、とさえ思えてくる。この本にも挟まれているいくつかの流行歌は、私もかつてなんども歌ったものではあるが、こうしてみると、彼の詞についていた故加藤和彦たちによってフレームアップされてきたところが大きかったのではないか。
別にこれまで期待してきたわけでもないので、彼に「幻滅」したとまでは言わないが、彼の世界は彼の世界で「完結」してしまっていることに驚く。うん、たしかにこれでいいのだ。たしかに彼のいうとおりだ。しかし、彼と別れたあとに、ひとりになって考えると、やはりおかしい。いや、ぜったいにおかしい。この感覚は、実は私がカウンセラーとしてクライエントとあって別れたあとにたびたび感じる感覚によく似ている。ひとつの「世界」を作り上げてしまっているのではないか。それが彼の(とりあえずの)可能性であり、それが彼の限界でもあるし、病原でもある。
これはなにも著者だけに限られるものではないが、当ブログが「フロイト 精神分析」をそれなりに消化しようとした場合、いわゆる彼ら=フロイト「派」が、同じドツボにはまっていないかどうか、見ていくのも興味深いところだ。
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