ペーター・カーメンツィント ヘッセ
「ヘルマン・ヘッセ全集(第3巻)」 「ペーター・カーメンツィント」
ヘルマン・ヘッセ /日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会 2006/10 臨川書店 全集・双書 : 384p
Vol.2 No876★★★☆☆ ★★★★☆ ★★★☆☆
「ペーター・カーメンツィント」
すでにこの小説は「郷愁」として、高橋健二訳の文庫本で読んだ。それはほんの数週間前のことであったが、この時点では「ヘッセ全集」や「エッセイ全集」のことが頭になかった。うすうすきがついてはいたのだが、とにかく手当たり次第ということで、目についた文庫本を手に取ったのであった。
しかし、同時進行的にこの一連の「全集」編集発行はつづいているのであり、21世紀の読書ブログとしては、当然こちらを読む進めながら、広くクラウドソーシングの基礎を固める必要があったのではないか、と思う。
とはいいつつ、おなじ小説を二度続けて読むほど気力もなく、またその翻訳を比較吟味するほどマニアックにもなれない。ただ、ここで記録しておくべきことは、ひとりの作家を「全集」として読むか、ひとつひとつの個別な作品を「単行本」あるいは「文庫本」で読むのか、ということである。
ましてやヘッセには、小説以外にもエッセイや書簡集が膨大な量があることが分かっており、それらを取捨選択したうえでさまざまな単行本がでている。これらをどう見るか、ということを先日から考えていたのだが、結論はでない。
結局は、いろいろあるのはよいことだ、ということであろう。たった一冊でヘッセを卒業していくなら、単行本でいいだろうし、全体を通してヘッセを見直したいというなら、これは全集に限る。また、晩年のエッセイにこだわりたいというなら、フォルカー・ミヒェルスのヘッセ研究の優れた本が何冊も翻訳されている。
さて、当ブログはどうするべきであろうか。全集の16+8=24冊を頭から順々に読んでいくのは、ちょっと荷が重すぎる。かといって、取りこぼしたヘッセについても、なんだか気にはなる。だから、結果としては、このまま進むしかないのだろう。
1)たまたまヘッセの一冊が気になって、読んでみた。
2)そういえば、昔、ヘッセを読んでみたことがあったと、自分の本棚をさがす。
3)なんと、お気に入りのヘッセ作品の新訳がでていたことに気がつく。
4)新訳で読むことによって、昔、気がつかなかったことがたくさんわかってきた。
5)もうすこし読んでみようと思ったら、他にもけっこう新刊本がでていた。
6)なんと、ヘッセにはこんな顔もあったのか、とあらためて驚く。
7)どうやら「全集」があるらしい。とにかくあの小説を全集で読んでみよう。
8)同じ巻に、こんな小説もあった。巻末の解説や新しい研究も興味深い。
9)なるほど、全集はこんな構成になっているのか。
10)なんと、現在刊行中の続刊の「全集」もあった。
11)どうれ、全体を見渡した上で、とにかく興味あるところから蚕食読みだ。
12)残ったところも、ひととおり把握しておく必要もあるが、精読はしない。
13)刊行中のものもあるので、次の巻がでたら、とにかくリアルタイムで読んでみよう。
14)あの小説とあの文章の繋がりはどうなっているのか、テーマや問題点が浮き彫りになってくる。
15)あの本は再読だな。あれは、まぁ、ある、ということを確認すればいいだろう。それと、あれとあれはダブっているので、あっちは無視でいいだろう。だけど、ここのミッシングリンクはどうなってる? 要探索だ。
16)いずれひと通り目を通したら、その全体像を把握した上で、いずれはこの新しい全集を頭から読み直すのもいいだろう。ぜひ、そんなチャンスがくるといい。
17)余裕があれば、以前にでていた全集などと比較してみるのもいいかもしれない。
18)でも、やっぱり、あれが一番面白かったな。
19)ヘッセという人が生きていたんだな。
20)ヘッセの小説が与えてくれたものはなんだっただろう。
21)自分はどう生きていくのだろう。
というようなプロセスで当ブログにおけるヘッセ読みは進むのであろうか。現在は、このちょうど中間地点12)あたりまでさしかかってきたところだろうか。
この第二巻においては、青年ヘッセの実にそのスタート地点が克明に表現されている。スタート地点とは言え、すでにその一生全体を象徴するような、そして個性的な部分がしかりと記録されている。
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