北山修/きたやまおさむ百歌撰
「北山修/きたやまおさむ百歌撰」<2>
北山修 2008/12 ヤマハミュージックメディア 単行本 355p
この年末年始を利用して、「1Q84」を読み始めている。以前、パラパラとはめくっておいたが、一度ゆっくり読んでみたいと思っていた。そのことについてはあとでまとめて書くとして、自分の中では、村上春樹を読みながら北山修を思いだし、北山修をめくりながらちらちらと村上春樹のことを思い出しながら、知らず知らずにその比較を続けている。
もうひとつの極、グルジェフについてはどうしようと、突然困ったりする。漠然とケン・ウィルバーとか中沢新一をウスペンスキーになぞらえてみようか、と思ったり、この二人にさらに「覚醒の舞踏」をぶつけて、しばらく混乱が沈殿していくのを見つめていようかと思ったりする。すべては、あまたある本達を自分なりに整理するために方便ではあるのだが、自分の思考のなかの整理でもある。
そんななかで、北山修を読んでいるのだが、彼の個体史に振り回されないようにしようと思いつつ、フロイトとのつながりを、つまりより純度の高い鉱脈を探してやろう、としつつ、個的な試掘をつづけている。
北山にこんなに詩があったのか、と思いつつ、あの歌もこの歌も、北山だったのか、といまさらながらびっくり。でも後半部分の「歌によせて---作品回想」p263はちょっと興ざめかなと思う。一曲一曲を作者自身が解説している。詩をじっくり味わったあとでないと、あまり読む気にはなれない。これはもちろん、ヘッセについても同じで、彼もずいぶんと自分の作品を回想している文章があるが、作家たちは作品そのもので勝負すべきで、公表したかぎりは、あとはその受け取った読者なり視聴者にお任せというのが本当だろう、とも思う。
そんなことを考えながら、「1Q84」を読んでいると、北山は一体どのようにこの小説を読むだろうと思う。同じ時代を生きてきた同世代(北山の方が数歳上だが)の表現者たちなのに、北山の「時代性」は、村上の「時代性」と、ここにきて、かなり違っている。一口に言うなら北山はすっかり懐古趣味になっており、村上は、ここからさらに時代に鋭角に突き刺さろうとしている。北山のもっと先鋭な部分は、どこにあるのだろう。
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