東方への旅<2> ヘッセ
「ヘルマン・ヘッセ全集」 第13巻
ヘルマン・ヘッセ /日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会 2006/08 臨川書店 全集・双書 297p
「東方への旅」<2>
書かれた年代やその性格から、この小説が「荒野の狼」から「ガラス玉演(遊)戯」へと至るプロセスをつなぐものということは理解した。しかし、「東方」という言葉のニュアンスにあった「インド」っぽいものは、一切なかった。むしろもっと渇いた西洋的なモノトーンな幾何学的なものさえ感じた。
この小説を読んだまま「荒野の狼」を読み直さないでいいだろうか。ラングや、その師であるユングの精神分析を受けていたとされるヘッセの、その中年期における心の「闇」を、ここで再び確認する必要があるのではないか、と逡巡する。
しかし、・・・と思う。そもそも、闇は闇なのである。闇をいくら手さぐりで、その闇の深さを知ったからと言って、闇は闇のままである。闇の中をすすむ者には、光が必要だ。たった一筋の光さえあれば、闇のその深さを計測し確認する必要はない。そう言った意味では、この「東方への旅」は、ヘッセなりの「光」の見つけ方の予兆が感じられる。
さて、では「ガラス玉」は「光」足りえているのか。今までは、単独の小説として、その特異な世界に、ただただ憧れるように読んでいたあの小説であるが、一連の流れの中で再読してみるとするなら、はて、「ガラス玉」は、あれで、いいのか。かなり突き放したところで、ヘッセを考えることができるようになってきた。
最近、ヘッセ~フロイトのコラボレーションのラインを探していたら、フロイト~ウィトゲンシュタインのラインが見つかった。これがなかなか面白い。ウィットゲンシュタインも、単独で読んでいるうちには、なんとも単層でモノトーンだが、フロイトとの比較で考えていってみると、なんだかゴシップ雑誌の三面記事的に、なかなか面白いことになってきた。
であるなら、同時代的に、ヘッセ~ウィットゲンシュタイン、というものもあるのではないか、と、わが野次馬的マインドは、いろいろキューリアスになっている。ないかもしれないが、あるかもしれない。
そんな気分で本日、古書店をうろうろしていたら、1967年にでた「ホイットマン詩集」という本を100円で売っていた。なんとも時代を感じさせる。芥川比呂志がホイットマンの詩を朗読している「ソノシート」が一枚ついているのであった。いまさら、こんなものを買っても、もうレコードプレイヤーを持っていないので、すぐに聴くことはできないが、なんだか嬉しくなった。
そしてパラパラと解説などをめくっていたら、ホイットマンと「バガヴァッド・ギータ」との繋がりについて論じている部分があった。ほほう、ホイットマンもバガヴァッド・ギータも、当ブログにおいては、重要なフレーズ群に属しているが、いずれも、他のフレーズとの繋がりを考察しないまま、スタンドアローンで放り投げておいた。
しかし、これらのフレーズ群を、ひとつのおもちゃ箱にいれておいたら、不思議なネットワーくを形作り始め、次第になにか芳香のようなものを放ち始めてきた。なんか不思議な段階に入ってきた。
正月には「1Q84」を読もうと思っている。図書館に予約していた上下巻が、半年を経てようやく私の順番になった。私の後ろには、すでに次の百人のリクエストがブッキングされている。そんなにしてまで読む価値があるものだろうか。
すでに斜め読みはしている小説だが、まぁ、時間のある時にめくってみようと思う。ただ、前回斜め読みしたときとはちがって、もう少し、他の小説とのリンクやネットワークを考えながら読んでみようと思う。このヘッセの「東方への旅」をめくりながらそう思った。
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