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2009/12/25

アッシジの聖フランチェスコの幼年時代 ヘッセ

<1>よりつづく 

ヘルマン・ヘッセ全集(第11巻)
「ヘルマン・ヘッセ全集(第11巻)」 <2> 子どもの心
ヘルマン・ヘッセ /日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会 2006/04 臨川書店 全集・双書 346p
Vol.2 No882★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

「アッシジの聖フランチェスコの幼年時代」

 
この「ヘッセ全集」の中で一番最初に手にしたのがこの第11巻だった。Oshoの「私が愛した本」リスト追っかけの中で、「ヤコブ・ベーメ」を探していて、この巻に収録されているヘッセの「ヤーコブ・ベーメの召命」に出会ったのだった。あれがちょうど半年前のことであり、あの時点では、このシリーズをまるまんま追っかけるようになるとは思ってみなかった。

 ヤーコブ・ベーメに関しては、日本においては「アウローラ」という一冊になっており、この本の確認はしたものの、まだ十分に読める体制にはなっていない。ただ、こちらのほうに、このような方向性があるのか、ということは確認しておいた。

 またこのシリーズ「ヘッセ全集」第2巻には「アッシジのフランチェスコ」1904年が収録されており、こちらの第11巻の「アッシジの聖フランチェスコの幼年時代」1918年のほうが続編であると考えられる。もっとも、「幼年時代」に遡ることになるのだから、逆にこちらのほうが前編となるべきかもしれないが、むしろこの「幼年時代」のなかに、ヘッセは自分の幼年時代を重ねているようでもあり、よりヘッセらしい作品と言える。

 実際は、ここからもっと「アウローラ」のほうへ展開していきたいと思っていた当ブログであるが、ヘッセの重力が、ヘッセ圏内から脱出しようとする読者を、強力に引き戻してしまうところがある。ヘッセは、どこまでも人間らしい作家である。ヘッセの「シッダールタ」もまた、どこまでも人間らしいシッダールタであったが、こちらのフランチェスコも、どこまでもヘッセらしいフランチェスコであった。

 Oshoのタロットカードにアッシジの聖フランシスのカードがあったことを思い出した。

Transf022thefoolishheart

 The crazy wisdom of Francis of Assisi

 ハートは岩に語りかけることができます……全き愛がその神秘を明かします。ハートからマッドに狂いましょう。
 アッシジの聖フランシスは確実に精神病院マッドハウスに入っていたにちがいない。樹に話しかけ、アーモンドの樹にこう言っている。「シスター、お元気ですか?」――もし彼がここにいたら、捕まっていたにちがいない。「シスター、私に神を歌ってください」と彼はアーモンドの樹に話しかけたものだ。しかもそれだけではない――彼はアーモンドの樹が歌うのを聞く! 狂っている! 治療が必要だ!
 彼は河に、魚に話しかける――しかも、彼はその魚が自分に応えると主張する。彼は石や岩に話しかける――狂っているという証拠ががほかにもまだ必要だろうか?
 彼は狂っている。だが、アッシジの聖フランシスのようにあなたも狂いたくはないかね? ちょっと考えてごらん――アーモンドの樹が歌うのを聞くことのできる能力、樹のなかの兄弟姉妹たちを感じることのできるはーと、あらゆるところに、まわりじゅうに、あらゆる形のなかに神を見るハート……。
 それは最大限の愛のハートにちがいない。全き愛がその神秘をあなたに明かす。だが、論理的なマインドにとっては、もちろん、これらのことはナンセンスだ。
 私にとてはこれらだけが意味のあることだ。狂いなさい。もしできるなら、ハートから狂いなさい。
OSHO 「ANCIENT MUSIC IN THE PINES」 p.171

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