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2009/12/17

東方への旅<1> ヘッセ

ヘルマン・ヘッセ全集(第13巻)
「ヘルマン・ヘッセ全集」 第13巻
ヘルマン・ヘッセ /日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会 2006/08 臨川書店 全集・双書 297p
Vol.2 No863★★★★☆ ★★★★★ ★★★★☆

「東方への旅」<1>

 と言うのも、僕たちの目的は東方だけではなかったからだ。むしろ僕たちの東方とは、ひとつの国とか、地理的な存在であるだけではなく、魂の故郷との青春だったのだ。それはどこにでもあるし、どこでもなく、あらゆる時代の合一だった。とはいえ、こういったことはいつもほんの一瞬、意識にのぼっただけだ。そしてその点にこそ、あの当時僕の体験した大きな幸福があったのだ。あとになって、この幸福が失われるやいなや、僕はこれら諸々の関連をはっきりと悟ったのだが、もう何の役にも立たず、何の慰めもそこから得ることはなかったのだから。p239

 この13巻には、「荒野の狼」(1927年)と「東方への旅」(1932年)が収録されている。年代的に見ても「荒野の狼」を読んでから「東方への旅」へと移行しようと思っていたが、なかなかこちらの心がその年代についていかない。この全集に換算して223ページもの長編を読み切るには、この年末という環境はちょっとせせこましい季節柄ではある。

 最初、手持ちの文庫本「荒野の狼」を読んでいたのだが、新しい全集にも新訳があるということが分かった段階で、こちらを最初から読み直してみた。なかなか興味深いのであるが、かなりの長編でもあり、精神分析を受けながら、なおその中に癒されないヘッセの内面世界と長時間おつきあいするには、当ブログの現在の受容力に、それだけの展びがない。

 逡巡したあげく、「荒野の狼」をまた途中で放り投げ、こちらの「東方への旅」へと移ってきた。そもそも今回ヘッセ追っかけが始まったのは、読者からのナビによるものだが、それはかならずしもヘッセ「全集」と規定しているわけではない。むしろそれは「シッダールタ」と割り切ってきている。今回は、「シッダールタ」の、全体のなかにおける位置づけがわかった段階で、つぎなる「ナビ」様のアドバイスに従って当ブログの進路を切り替えていくべきではないか。

 最近、精神分析を調べ、あるいはウィットゲンを調べてみると、なんと直接つながりの「ウィトゲンシュタインと精神分析」とか「ウィトゲンシュタインからフロイトへ」などという、現在の当ブログとしては避けて通れないようなタイトルの本も存在することが分かってきた。また「精神分析」においても、21世紀の現代日本でいえば、たとえば北山修などの気になる名前も見えてくる。最近亡くなった加藤和彦のことなど、どんな風に考えているだろう、などと考えはじまると、ここはかならずしも、ひとりヘルマン・ヘッセの深堀りだけに集中できそうにないな、と思い始めた次第。

 この「東方への旅」は、「ガラス玉演戯」(遊戯とも)が書かれる直前に出されている。「ガラス玉」は1932年から1942年の約11年をかけて作られた作品であるので、まさにひとつながりのものとして読むことも可能であろう。「東方」に持たせた意味、登場してくる秘密の結社など、当時の「神智学」やその他のネットワークをどこかシンボライズして、ヘッセなりに理解した、ということであろう。

 「東方への旅」はこの全集の中で勘定して、約60ページ程度の分量なので、まずは、これを読んでから、新たなる次の展開を考えよう。「東方への旅」。その「東方」とは何か。「ガラス玉」へと連なるテーマが見えてくるはずである。ヘッセの真価が問われる。

<2>につづく

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