日本人の<原罪>
「日本人の<原罪>」
北山修 /橋本雅之 2009/01 講談社 新書 238p
Vol.2 No888★★☆☆☆ ★★☆☆☆ ★★☆☆☆
対談であってみれば、北山の三部作「ふりかえったら風」の中に収められてしかるべきものであろうが、2005年にでた三部作に対して、こちらは07年に対談が行われ、一度雑誌に掲載された後に「大幅な加筆・修正をほどこした」p199あとに、ことし1月に発行されたものである。あと数日で2009年にもお別れだが、まぁ「今年」出た、最新の北山の消息のひとつ、と考えてもいいのだろう。
正直言って面白くない。フロイト追っかけのサブラインとして北山追っかけを始めてみたのだが、最初の期待値に比較すると、なんだかだんだん評価点が下がり続けている。なぜだろう、と思う。しっかりした内容で、たぶんこの本にも啓発される読者も多いはずなのだ。しかし、面白くない。
それは当ブログの現在の方向性とうまくマッチしていない、ということにつきるだろう。まず、「日本人」という枠組みが気に入らない。当ブログは「地球人スピリット・ジャーナル」である。地球人というコンセプトなら飛びつきたくなるが、「日本人」となると、ちょっと手がすくむ。それでも、その「日本人」から「地球人」への成長プロセスが、明示的にせよ、暗示的にせよ、表現されていれば、それは、当ブログにおける「面白い」本ということになるのだが。
さらに「原罪」が面白くない。なぜに西洋的精神文化がここにきて東洋文化に関心を寄せたかといえば、東洋精神文化は「原罪」を基礎としていないからだ。東洋文化は「人間はもともとブッダ」である、と主張しているのである。もっかの当ブログもテーマは「ブッダ達の心理学」である。しかるに、あえて「日本神話」に「原罪」を取り入れることは、必要あるのだろうか。そこからなにが見えてくるのだろうか。
この弧状列島にすむ人々はなにも「日本人」ばかりではない。沖縄からアイヌの人々の住む北方列島まで、一つの神話で語りつくすことは無理である。時代に逆行している。日本人が外国に行って働いているように、日本にも外国からたくさんの人々がきて働いている。この時代に、ひとつの大きな球体である地球に生きる私たちに必要なのは、地球人達のための新しい物語なのである。
その新しい物語は、歌や踊り、歓喜や共感、笑いと喜びに包まれたものであるべきだ。罪やけがれ、義務や原理に縛られたものであるべきではない。日本神話にフロイトを対応させて「精神分析」したりする試みは、企画としては面白いが、時代の趨勢ではないし、役立たない。
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