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2009/12/19

「ガラス玉遊戯」 ヘッセ<6>

高橋健二訳「ガラス玉演戯」2004よりつづく

ヘルマン・ヘッセ全集(第15巻)
「ヘルマン・ヘッセ全集」 第15巻
ヘルマン・ヘッセ /日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会 2007/06 臨川書店 全集・双書 545p
Vol.2 No865★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

「ガラス玉遊戯」 <6>

 今回、またこの作品に触れることになった。何度でも読んでみたい文学作品はあるか、と問われたら、私はまずこのヘッセ最高峰の一冊を挙げたい。そう多くはないが、かつてこの小説を何度か読んだ。そしてこれからも、きっとまた読む機会があるだろう。そう願いたい。

 今回は、「シッダールタ」という検索ワードを切り口として、ヘッセの世界に入り、ヘッセ全集、エッセイ全集を巡りながら、ヘッセ~フロイト、ヘッセ~グルジェフ、というラインの探索に入っている。そして、現在のブログの進行上、テーマはややフロイトのほうに軸足が移りつつある。

 そういうプロセスのなかでのこの本との遭遇なので、じっくり読みこむということはしない。ただ、いままでヘッセの世界に圧倒されていたために、十分に距離を持ってこの作品を見つめることができなかったが、通りすがり、という気楽さから考えると、この作品のもうちょっと別な顔が見えてきたようにも思う。

 まず、作品の名前であるが、いままで高橋健二訳を読んでいた私には、長いこと「ガラス玉<演>戯」というタイトルが当たり前だったのだが、この本では「ガラス玉<遊>戯」となっている。新しい訳語なのかな、と思ったが、そうでもなさそうだ。まずは、かつて高橋健二訳の他に、井出賁夫訳、登張正実訳が存在し、今回は、渡辺勝を代表とする日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会訳、が登場した、という理解でいいのだろうか。

 なにはともあれ、全集の中で訳語の統一などが行われ、ましてや出版年が新しいことを考えれば、もっとも新しい息吹を吹き込まれた一冊ということになろう。もともと英語においては「Glass Bead Game」と訳出されているわけだから、Gameは、「演戯」よりはたしかに「遊戯」に近いイメージがある。

 ただ私の中では、この言葉はなかなか定着しない。ガラス玉、というべきところを、いつも「シャボン玉」と間違う。個人的なメモなどでは、かなりの場合「シャボン玉演戯」となっていることが多い。あるいは「演戯」を「戯曲」としている場合もある。だから、はなはだしい時は「シャボン玉戯曲」となっているので、第三者には、なんのことやら、よくわからないであろう。

 しかし、私のこの混同はも失笑を買うだけの愚かな読み方、とも決して言えないのではないか、と思う。ヘッセの「Glass Bead Game」も、よくよく読んでみれば、必ずしも「Glass 」でなくてはならない訳ではないからだ。なぜに「Glass」でなければならないのか、そこになんの説明もない。名付け難いひとつの「所作」をそう名付けているにすぎない。

 ガラス玉遊戯はカスターリエンの理念を最もよく象徴しているとされ、これはバスティアン・ベロットという、少年ヘッセが職人として努めた時計工場の親方の名にちなむカルプの音楽家に由来する。ペロットは子どものための素朴な数え玉にならって、針金を数十本取り付けた枠を作り、大きさと形と色とがさまざまなガラス玉を針金に並べ、そのガラス玉で音楽上の引用やテーマを対立させたりした、この遊戯は学生の間に流行し、さらに数学と音楽を結合することのできる記号法が考案されると大きく発展し、のちにはこれに東方を旅する人たちによって瞑想が加わり、もはやガラス玉とは何の関係もなくなってきたにもかかわらずその名称が残ったのである。p533「解説」渡辺勝

 私が意欲的な翻訳家だったら、この小説を「シャボン玉戯曲」とでも訳出するのではないだろうか。いや、そうしないまでも、すくなくとも一読者としての私は、私流の訳語で、ずっとこの小説を読んできているのであった。

 まず、ヘッセがこの小説で描いているところの世界は、ガラス玉の硬質な鉱物を材料としているものではないだろう。たしかに透明感に富んだ球体を持った世界ではあるけれど、もっと淡い、もっと消え行ってしまうような表現の世界だ。そして、作品として永続的にそこに存在し続ける彫像なようなものではない。

 私が「演戯」でもなければ「遊戯」でもなく、「戯曲」という言葉を連想するかというと、ヘッセの書いているものは、決して楽譜ではないからだ。演奏そのものである。演奏している存在と、多分それを聞いている存在の、その時に、その場所にあったそのことだけが「作品」なのだ。だから、表現されつつも、つねに消えつつあるものであり、永続性は感じさせない。刹那的なものだ。刹那なに表現されている永遠ななにかだ。

 「玉」=「Bead」、はどうであろうか。現代日本人のひとりとしての勝手な理解であるが、ビーズとなると、中に糸を通す穴があいていて、ひと連なりの首飾りのようなイメージがある。しかるに、ヘッセの描く「ガラス玉演戯(遊戯)」において表現され続けているものは、決してひと連なりの直線的なものではない。もっと軽量で、自由に空を飛び、幾層にも重なり会うことのできる、大小さまざまなカラフルな世界である。

 1935年の夏には、牧歌「庭でのひととき」で、「私は賢人、詩人、研究者、芸術家が一つに心を合わせて/百もの入り口のある精神の大聖堂を建設するのを見る。---私はいつかのちに/それを記述するつもりだ。その日はまだ来ない」と「ガラス玉遊戯」を予告しているが、そのころすでにヘッセはこのような壮大な遊戯を独自に構想していた。p534「解説」渡辺勝

 当ブログは、唐突に、身の丈に合わないことと知りながら口走ってしまえば、ヘッセのこの「ガラス玉遊戯」の世界に連なるなにごとかである。もっと言うなら、私流の「ガラス玉遊戯」なのだ。「賢人、詩人、研究者、芸術家が一つに心を合わせて」作る「百もの入り口のある精神の大聖堂」なのだ。そしてさらには「数学と音楽を結合することのできる記号法が考案されると大きく発展し、のちにはこれに東方を旅する人たちによって瞑想が加わった」ものでもある。

 だから、ヘッセの着想を借りながらも、さらに一歩当ブログ独自の歩をすすめるとすれば、まさに当ブログは「シャボン玉戯曲」を目ざしている、と自称しても、おかしくはないのである。ただ、それは、誰かに見せることを目的にしているわけではなく、ごくごく私的にとどまるべきものではあるが。

 私は、このヘッセの「ガラス玉遊戯」を含め、一切の彼の作品に対しての「批判」を、「小乗的カルマ」、という単語で表現している。ヘッセの美しい世界に耽溺しつつも、超えていかれなくてはならない。美しいヘッセの世界は、大いなる存在の中へと消えていく必要がある。

 ガラス玉が割れて、とげとげしい破片となって飛び散るか。あるいは、シャボン玉が割れて、水蒸気となって空中に飛散するか。いずれであったとしても、その消滅をも含む世界こそが、求められている世界である。そして美も醜も超えて行かれたところにこそ、魂のカスターリエンはあるはずだ。

<7>につづく

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