ウィトゲンシュタインからフロイトへ
「ウィトゲンシュタインからフロイトへ」 哲学・神話・疑似科学
ジャック・ブーヴレス /中川雄一 1997/02 国文社 単行本 263p
Vol.2 No866★★☆☆☆ ★★★☆☆ ★★☆☆☆
精神療法家の立場から書かれた「ウィトゲンシュタインと精神分析」がなかなかの好著だったので、こちらも期待したのだが、哲学者の書いたこちらの本は、ちょっと難解で、あまりピンとこなかった。大体において、「ウィトゲンシュタイン『から』フロイトへ」というタイトルの「から」が気にくわない。
原題は「Philosophie, Mythologie et Pseud-Science」であるから「哲学・神話・疑似科学」で間違いないと思うが、これでは本の性格が良くわからないので、「ウィトゲンシュタインからフロイトへ」という日本語タイトルになったのだろう。それにしても「から」はいただけない。
いや別にこれは翻訳者が誤訳したのではなく、本の趣旨はそのようになっているのだからこれでいいのだろうが、この二人のバトルなら、私なら明らかにウィトゲンシュタイン側に立って応援するだろう。「フロイトへ」では、なんだかあまりに保守的過ぎる。それにしても、たまたま付けたテレビでジャイアント馬場とラッシャー木村が戦って、最後に馬場が勝つような「日本プロレス」を見ているようで、古色蒼然とし過ぎている。
(前略)おそらくここにこそ、つねづねウィトゲンシュタインの権威に訴えるひとびとが彼の著作を読みながらも、哲学に対する考え方なり哲学の営為なりについて概して影響らしい影響をほとんど受けなかった理由があるだろう。そしてたぶん、いまや「ウィトゲンシュタインとだれそれ」といったたぐいの著作や論文が現れる時代になった理由もそこにあるだろう。この場合、そのだれそれ氏はできるだけ予想外の著述家であることが望ましいのである。p9「まえがき」
なるほど、「○○○ VS ▲▲▲」などというバトルは、予想外の相手同士のほうが面白い。だからこそ異種格闘技がこれだけ隆盛しているのであろう。
ウィトゲンシュタインとフロイトという問題はおそらく(中略)、ふたつのタイプの合理性のあいだの対決として扱うことができる。本質的な違いは、私の見るところ、フロイトがまったく古典的なタイプの科学的合理主義を主張するのに対し、一方ウィトゲンシュタインの思考は明らかにまったく別の次元に属するという点にある。p237「むすび」
「まえがき」から「むすび」まで、この調子なので、この本の主題は科学者VS哲学者、という構造でできているわけだが、面白いのは、いずれが科学者で、いずれが哲学者であるか、というところである。
ウィトゲンシュタインはときどきフロイトの弟子であると自称するものの、そうであれば当然参照をもとめてしかるべき心理学の哲学に考察において、フロイトを引き合いに出すことがけっしてなかった。p29
自称「フロイトの弟子」はなかなかの気骨のある弟子であった。
フロイトは科学者の立場に立っていると思いなしている。彼は、科学においてしばしば起こるように、不可能であろうと思われていたものが可能なだけでなく現実的であることを照明したわけだ。だがウィトゲンシュタインによれば、実のところフロイトはむしろ哲学者の立場に立っている。すなわち、なにか不可能なものが問題にされているのではないかと異議を唱えもせずに、途方もない発見がなされたと多くの場合あわてて主張しがちな哲学者の立場である。p65
フロイトを科学者とみることは厳密にいえばなかなか難しいのであるが、彼がそう自己規定していたことは間違いないし、当ブログにおいても、彼を科学者とみることにしている。さて、哲学者とは一体どういう立場であろうか。科学者--詩人--神秘家、のトリニティでいえば、科学者と詩人の間あたりであろうか。限りなく神秘家の要素が排除されている。
ウィトゲンシュタインは師に対して異論を唱えていばかりいるようなフロイトの「弟子」である。ラカンはフロイト的正統へ帰ることを強要するようなフロイトの「弟子」である。しかしながら、このふたりの思想家のいずれがフロイトの仕事の精神に近いと言ってよいのかという問題はまだ解決されていない。p88
どうもこの辺の「論争」は面白そうでいて、実はあまり面白くない。結局はこのような論争がおこるのは、科学に限界があり、哲学に限界があることを、自ら逆証明してしてしまっているのではないだろうか。
ウィトゲンシュタインの側からすればその違いは決定的であった。フロイトは「科学」という名の陰に隠れつつ科学という名を使って(悪しき)哲学をやっているのではないか、すなわち、通常の哲学的振舞いにひそむもっとも典型的な悪徳を科学的な美徳にまで仕立てあげたのではないかと、彼はあからさまに疑う。
フロイトはあくまで科学者の見地であると自認する見地から、根本的にはただ一種類の夢や機知や間違い等々が存在するだけであることを示そうとするが、ウィトゲンシュタインはまさそれこそが哲学において仮定としたり前提としたりしてはならないような種類の事柄なのだと考える。なぜなら一般的にいって、それこそが、もっとも典型的な哲学的混同ともっとも解決しにくい哲学的問題が生じてくる源泉だからである。p238
かなり読みにくい文章だが、これは翻訳が悪いのではなく、もともとの原書がこのように煩雑な文章形態を持っているのだろう。とにかくここでの「問題」は出口のない「公案」のようなものと捉えるべきだろう。本当は解決などないのだ。その問題そのものを超越するところにこそ解決はある。当ブログがトリニティの中に神秘家をおき、もっとも重要視しつつ、そちらへ移動していこうとしている所以である。
精神分析の大きな誤りは、自分を科学と信じている点にある。すなわち、その説得の仕方に誤りがあるのではなく、むしろそもそも自分がなにをやっているかについて無知であること、自分のやっていることの危険の大きさを過小評価していることに誤りがある。243p「むすび」
これがこの本の大団円である。な~んだ、それなら、最初からそう書いておけば、この本一冊を読む必要がなかったのに。でも、そうなると、哲学者の仕事がなくなってしまう。痛し痒しではある。
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