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2009/12/20

ヘッセ 魂の手紙

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「ヘッセ 魂の手紙」 思春期の苦しみから老年の輝きへ
ヘルマン・ヘッセ /ヘルマン・ヘッセ研究会 1998/10 毎日新聞社 単行本 p341
Vol.2 No867★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 同じヘルマン・ヘッセ研究会の編集による本であってみれば、いつかは「ヘルマン・ヘッセ エッセイ全集」の中の一冊として出版されることになるであろうが、必ずしも、同じ内容で出版されるとも限らない。よもやこの本において掲載されたものが、全集からもれることはないだろうと思われるが、「エッセイ全集」は全8巻中4巻までしか刊行されていないので、現在の時点でこの一冊に目を通しておくことも意義ないわけでもないだろう。

 という軽い気持ちでめくったのであったが、あちこちに重要なポイントがいくつも散見され、本来は精読されてしかるべき一冊だろうと思われる。この本はおなじ研究会の、先立つこと「ヘッセからの手紙--混沌を生き抜くために」1995の刊行が好評であったことに刺激されてできた本であり、また、一連のこれらの刊行が、やがては「全集」の刊行へ繋がっていったのであろう。まさにヘッセ・ルネッサンスの立役者の中の一冊と言えるであろう。

 当ブログとしては、まず、この本においてはヘッセからフロイトの手紙が収容されているところがとても重要だと感じた。とくにテーマは「芸術家と精神分析」についてである。

 ジュークムント・フロイトに  ベルン 1918年9月9日

拝啓 教授!
 感謝のお言葉を頂き、まったくお恥ずかしい気持ちで受け止めております。と申しますのも、深く感謝申し上げなければなりませんのは、かえって私の方だからです。それを今日初めてお伝えすることができ、大変うれしく存じます。詩人たちは無意識のうちにいつもあなたの同盟者だったのです。今後はますます意識的にもますますそうなってゆくことでしょう。 衷心より尊敬の念を持って

 (注)フロイトは1918年7月16日付けの<フランクフルト新聞>に発表されたヘッセの論文「芸術家と精神分析」、および、「『ペーター・カーメンツィント』以来の作品を楽しみにして読んでいた」ことに感謝したのだった。1919年から25年にかけてフロイトの著作に対するヘッセの書評もある(「文学に対する著作」)。
p303

 ここにおける「文学に対する著作」とは、どこに収録されている文章か分からず。「エッセイ全集」詳細をさらっと見た限りではまだ発見できていないが、早晩みつかるだろう。

 パラパラとめくっていて、断片的に飛び込んでくる言葉群の中には、どきっとさせられるところが多くある。たとえば、次の部分などは、ホントに心痛む。

 「ガラス玉遊戯」は僕の経験上の大きな失敗作だった。これには11年以上も費やしたが、物質的にも精神的にも何ももたらさなかった。この作品は多数の献呈本としても、多くの人の手に渡っていると思うのだが、そのほとんどが受け取ったという知らせがないままだ。厚い日本巻で、値段は26スイス・フラン。君には出版後すぐに送ったが、君は受け取っていなかったので、今年もう一度出版社から送らせた。だがこれも届いていないようだね。p157 1945年ゴットリー・ベルマン・フィッシャーマンへの手紙より

 「ガラス玉遊戯」は、My Favorite booksの中の一冊だが、出版時における状況は、ナチが台頭する戦時下であったとしても、その真価が広く認められるには、幾多の困難があったのだ、ということを認識する必要があった。

 また随所にヘッセ自身の述懐があって、彼の作品自体がさらに3Dの立体感を持って浮きあがってきそうな感じがしてくる。

 私の本「インドから」についての質問には少し困りました。では、あなたにそのことについてすべてお話いたしましょう。(中略)内容の主要部分は、つまり当時マラッカやスマトラやセイロンを旅行した時の覚え書きなのですが、残念ながらお薦めできません。この本は不十分なもので、また旅行そのものにも実際失望しました。p307 1923年ロマン・ロランへの手紙

 出来上がった作品、しかも一般的な評価の高い作品だけをつまみ食いしただけではわからないヘッセの内面世界が波打っている。もっとも、「インドから」は、ヘッセ自身、この小説のタイトルとは裏腹に、インドには行っていないわけで、お勧めではないことは分かる。続いてこうも言う。

 当時、ヨーロッパに疲れてインドへ逃避した時には、私が彼の地で感じたのは異国情緒の魅惑だけでした。インドの精神については当時すでに知っており、それを私は探し求めていたのでしたが、旅行そのものの間は、この物質的な異国情緒のせいで、私はインド精神に近づくよりも、遠のいてしまったのです。
 さて、今や私は「シッダールタ」によって私のインドに対する借りを一部は返せました。東洋の衣はおそらく二度と必要とはしないと思います。
p307 1923年ロマン・ロランへの手紙

 「シッダールタ」は、たしかに東洋の衣を借りた西洋精神の彷徨であった。たしかにインドに対する借りの「一部」は返しただろう。そして、その借りの「全部」を返すことはできたのだろうか。

 もしあなたに不都合がなければ、どうかカルマンに、「東方への旅」を出版することにしたのかどうか、お問い合わせ下さいませんか。彼がこの本をもう要らないというのであれば、それはあなたの若い友人の自由にしていただけます。322p 1947年 アンドレ・ジッドへの手紙

 「東方への旅」もまた、ヘッセ文学においては重要な位置にある作品であるが、出版にこぎつけるまでの経緯にはさまざまあったようだ。しかし、それにしても、これだけの手紙類が残っているというのは、通常の作家でもあり得ることなのだろうか。物理的にも、後年これだけの手紙を回収することも相当に困難なことであろう。それとも、ヘッセは自分の手紙をタイプする時にカーボンコピーしておいたのだろうか。現代なら、自分のメールを保存しておくことなど当たり前のことではあるが。

 最近、テレビなどでも放送されたが、自分の妻の老境をドキュメンタリータッチで長時間放映した俳優夫婦があった。賛否両論であろうが、俳優とは自らの姿を大衆の前にさらすことが生業とは言え、私にはあまりにも目に酷すぎて、この番組は見なかった。

 ヘッセもまた、山間の隠者の風情を保ちながらも、つねに出版マーケットを意識し、つねに大衆の批評を浴びざるを得ない立場であったとは言え、これだけの手紙類が、後年これほどまでに、あからさまに曝け出されることを了としていたのだろうか。まぁ、すくなくとも、一読者としては、そこそこのところで引き返してきたほうが、我がヘッセ像に損傷が少ないようにも思う。ヘッセを神格化することも、ヘッセに耽溺することも当ブログの目的ではないとすれば、「尻取り」読書の次なるテーマが見つかれば、そこそこ、ヘッセを後にしなければならない時期が、そう遠くないうちに、やってくるだろう。

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