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2010/01/20

ねじまき鳥クロニクル(第1部)泥棒かささぎ編 

ねじまき鳥クロニクル(第1部)
「ねじまき鳥クロニクル」(第1部)泥棒かささぎ編 
村上春樹 1994/04 新潮社 単行本 308p
Vol.2 921★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 <第1部 泥棒かささぎ編>は、「新潮」(1992年10月号~93年8月号)に10回連載されたものに、加筆したものである。p310

 小説はひととおり全部を読み終わった後にひとまとめにしてメモしようとは思っているのだが、この小説は3部にわたる長編の上、発表形態も一冊一冊、一律ではないようだ。書かれた時期もずれている。ましてやこの第1部は月刊誌に連載されたもののようでもあるし、作品としての波もあるだろう。当ブログとしても、途中でメモするのも中途半端ではあるのだが、あえて、一冊づつメモしていくことにする。

 以前本田さんが言っていたことをふと思い出した。<上に行くべきときには、いちばん高い塔をみつけてそのてっぺんに登ればよろしい。下にいくべきときには、いちばん深い井戸をみつけてその底に下りればよろしい> とりあえず、井戸はここにひとつみつかったわけだ。と僕は思った。p122

 村上作品には、なにかの象徴であるかのように、井戸やエレベーターが重要なファクターとして登場する。第1部においては、まだ、この井戸についての解釈はなされていないし、「いちばん高い塔」とやらも、まだ登場していないようだ。

 一連の村上作品を読んでいて、「上に抜けていない」な、という私なりの感覚は、まだ解決されていない。私にはどこかで聞いた「ルーツ&ウィング」という言葉の組み合わせが気になっている。ルーツ、つまり大樹の根っこのように大地に根差し、ウィング、つまり鳳の両翼のように大きく羽ばたいて高く飛翔する。この組み合わせがもっている象徴を愛している、ということなのだ。上に抜ける、という感覚は、ここでいうウィングで、あえていうなら、「かもめのジョナサン」に表現されている飛翔感のようなものであろうと思う。

 80年代の大きな村上作品と言えば「ノルウェイの森」だから、「森」の連想から、あえてこれを「ルーツ」側の象徴として見た場合、90年代の大きな作品「ねじまき鳥クロニクル」は、「鳥」の連想から、「ウィング」側の小説であってくれたら面白いな、と思って読み始めた。

 しかし、鳥は鳥でも「ねじまき鳥」という、ギイギイ---という鳴き声が聞こえるだけの存在であり、まだ、その鳥自体が意味を持ち始めるということもなく、すくなくとも、この第1部では、ウィングとか「飛翔感」とか、「上に抜ける」感覚とかいう、一読者としての、勝手な志向性を満たしてくれるような兆候はまだでてこない。

 むしろ、いつもの村上春樹の世界のように、若い現代のカップルに小さな出来事が起き始める段階でしかないのだが、今回は、大きなファクターとしてノモンハン事件がかかわってきている。「羊をめぐる冒険」にも、20世紀前半における日本軍によるアジア大陸でのうごめきに対する言及があったが、この作品においても、その日本軍の動きをめぐって、さまざまな伏線が敷かれ始まっている。

 このような傾向は、ひょっとすると、掲載誌であった月刊誌「新潮」の読者の嗜好性を意識したものであったかもしれず、または、そのような傾向のある小説であるからこそ、この掲載誌が選ばれたのかも知れない。いずれにせよ、「戦争を知らない子供たち」世代としては、真正面から20世紀の前半におこなわれた日本軍のうごめきを解明しようとすることは、なかなか困難ではある。

 北山修も「戦争を知らない子供たち'83」という詞を残している。70年前後における戦後世代の明るさを強調する元の詞に対して、「大人になった」戦後世代としての、前世代の動きに対する検証、そしてそれを「知らない」でいることへの、自らの反省、そのようなものが込められていた。

 村上春樹も1949年生まれのれっきとした「戦争を知らない子供たち」世代である。しかし、この世代においても、決してこの前の戦争が無関係に存在しているわけもなく、また、無関係を装ってしまうところに、小説をあつかう上では、むしろデメリットが生まれてしまう可能性もでてくる。

 私は父親を8歳の時に亡くしたが、この父もまたノモンハン事件に関わったと、親戚の誰かに聞いている。もっとも、存命の間に直接父から聴いたわけでもなく、聴いても心に残るものは少なかったに違いない。大陸で匍匐前進中に敵弾を受け、弾道が肩から入って尻に抜けたとか、体にいくつかの破片が残っていたとか、多少の誇張されたであろう話を聞いたことがあったが、いずれにせよ、その傷がもとで本国に召還になり、またその傷から病を得て、早逝する要因にもなった。いつかはこのこと(つまりは、とりとめのないテーマにならざるを得ないが)を自分なりに理解してみたいという思いはくすぶってはいるが、いまだに果たせないでいる。

 私のからだそのものが溶けて液体になって、そのままここに流れてしまいそうにさえ思えました。この見事な光の至福の中でなら死んでもいいと思いました。いや、死にたいとさえ私は思いました。そこにあるのは、今何かがここで見事にひとつになったという感覚でした。圧倒的なまでの一体感です。そうだ、人生の真の意義とはこの何十秒かだけ続く光の中に存在するのだ、ここで自分はこのまま死んでしまうべきなのだと私は思いました。p299

<第2部>へつづく 

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