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2010/01/28

村上春樹『1Q84』をどう読むか <5>

<4>よりつづく 
村上春樹『1Q84』をどう読むか
「村上春樹『1Q84』をどう読むか」 <5>
河出書房新社 島田裕巳 内田樹 森達也他 2009/07  単行本 222p

上野俊哉「はじまりの1984、1968の残りもの」p153★★★☆☆

 1962年生れ、社会学者。「村上春樹は、長い間、同時代の政治や経済、あるいは歴史への参照を周到に回避することで多くの読者の共感を誘ってきた。」p153 新参の村上読者でしかない私などは、この出だしの文章で、う~ん、と唸ってしまう。なるほど、そうであるようでもあり、そうでないようでもある。それなりに妥当性のある説得力のある言葉だ。しかし、過去の新左翼的な言辞が踊る半面、著者が1962年生れであることを考えると、この人に「1968年の残りもの」というセリフは全うな意味では語れないだろうと思う。

小澤英実「声の物語、物語の声 『1Q84』とその隠喩」p158★★☆☆☆

1977年生れ、アメリカ文学研究者。「これによって癒されるか、気を抜いた刹那に針で衝かれて命を落とすかは、もはやあなたの読み方を超えて、生き方の問題なのである。」p163 当ブログもあまり人様の表現をどうのこうの言えないが、それでも、やっぱり、この辺の表現は歯が浮いてくるような評価だと思う。すくなくとも私はこの小説によって「癒される」こと(を求めてもいない)も、「命を落とす」(あまりにゲーマー的言辞)こともあり得ない。

速水健朗「『空気さなぎ』とフォースの暗黒面をめぐる考察」p164★★☆☆☆

1973年生れ、フリーライター。「『1Q84』は、『小説』について自己言及的に折り重ねて生み出された物語だ。」p168 はっきりと言うと、この世代の人々の評論をまともに聞いていない自分がいる。同じ土俵に生きている気がしない。だが、この世代の人々がこのように考えているのだ、という意味では、関心はある。そして、「わが」世代が「リアル」なゲームの中にいたのに、「かの」世代は、ひょっとすると、「ゲーム」そのものがリアルなのかな、と思う。小説の読み方そのものが違うのだろう。個人差ももちろんあろう。

佐々木敦「リトル・ピーブルよりレワニワを」p170★★★★★

1964年生れ、評論家。「立ち読みオジサンを見たときには、(略)オイオイこいつえんえんとタダ読みかよウゼエ的な微妙な不快感を感じた。」p170 発売からかなり遅れて立ち読みに書店に通い、数日でなんとか大体の文章を斜め読みしたが、やっぱり細かいデティールはわからなかった。奥さんが読了し、「面白い」というので、ようやく販売から半年遅れの正月休みの一週間で、布団の中で横になりながら、ようやく「精読」した私としては、著者の言葉が身にしみる。読んだのも図書館から借りた本だ。その他の解説本もすべてと言っていいくらい図書館本。4月にでる「book3」において、買うか買わないか、で、私自身の返答が確定するだろう。どんな「事実」が起こるか、それまで待とう。

水越真紀「天吾はなぜ青豆を殺したか?」p178★★★☆☆

1962年生れ、フリーライター。「個人であること、個人として生きることというのは、村上春樹の小説ではずっと、なによりも大切なテーマだった。」p180 鈴村和成、「読者は青豆に理想化された自己の像を見ることはできない」としたが、水越は女性という立場もあり、理想化された、とは言わないまでも、かなりシンパシーを持って青豆を読みこんだのではないか。個人であろうとしつつ、拒否しつ、共感しつつ、世代を超えて読まれる、という現象は興味深い。ましてやその個人(であろうとするひとりひとり)がクラウドソーシングとしての「ハルキワールド」を形成するとなると、なお興味深い。

上田麻由子「世界は骨と皮、血と肉でつくられる 村上春樹とオースターの物語」p182★★☆☆☆

1978年生れ、アメリカ文学研究。「どこか腑に落ちない。なぜなら、わたし自身がアメリカで目にしたハルキストたちは、あまりにもナイーブな読者だったからだ。」p185 ハルキニストでもなければ、良質の村上読者でもない。単なる通りがかりの新参の斜め読み人にあってみれば、本当は村上春樹の小説なんか、正直、どうでもいい。あえて言うなら、パラレルワールドとしての「1Q95」が浮かび上がってくれば、それで十分だ。使いまわし、こじつけ、曲解して、なお捨て去ってしまっても構わないと思っている。ちょっと極論だが、今は、そうしか言えない。

清水良典「『リトル・ピープル』とは何ものか」p187★★★☆☆

1954年生れ、文芸評論家。「村上春樹が作中にユングの名を出して、『影』の解説をしたのは、『1Q84』で驚かされたことの一つである。」p191 読者が「不特定多数に拡散しえた」p188のは、村上小説がたくさんの小道具を用意してきたからでもある。村上本人は、フロイトは嫌いで、どちらかというとユングが好きだ、ということも分かった。しかし、「ユング」もまた、村上小説の中の小道具に一つにされてしまう可能性はあるだろう。大体において、2009年の今、あるいは200Q年の「今」、ユングでは、この小説を読み解くことはできない。

新元良一「時間の推移へのささやかな抵抗」p194★★☆☆☆

1959年生れ、アメリカ文学研究者。「時間本来の厳格な法則から逃れようとする人たちの姿をリアルに作中人物に投影し、読むわれわれに現実感をもたらすのは何故だろう。」191p コンテンツからコンシャスネスのステータスへ移行すれば、本来、時間という概念はないのだ。時間という概念を使いながら、時間という概念をこわすことができているとするならば、ましてそれが現実感をもたらしているとすれば、よりコンシャスネスの地平へと移行していることになる。もの、こと、を超えて、ある、まで行けば時間はない。

越川芳明「『卵と壁』を超えて」p199★★☆☆☆

1952年生れ、アメリカ文学研究者。「村上はイスラエル政府によって、『政治的』に利用されてしまったということだ。村上のほうも、ノーベル賞への布石としてエルサレム賞受賞を利用した。」p200 さまざまな評価はあれど、「1Q84」は完結しておらず、ノーベル賞の選考プロセスは秘密主義の壁の中で公開されておらず、世界に平和は来ていない。そこまでの過程の中で、何がどう絡まりあい、どう利用しあうのかは、まったく未知なる次元に属している。ただ、その中にあっても、大きなキャラクターとして、この小説と作家が歩み続けている、という事実はある。

竹内真「村上春樹をめぐる、くたびれた冒険」p204★★★★★

1973年生れ、ブログ「不可視の学院」主宰。「村上春樹を好きか嫌いかと問われれば、たんに『読まず嫌い』だと答えるしかない。だが『嫌い』以前に、僕はこの作家にとことん興味がなかった。作品を読んでみようとも思わなかったし、わざわざ批判しようという気にもならなかった。」p204 いみじくも同じブロガー(といっても私はごくごくミニマムだが)として、村上春樹に対する感性はほぼ似たものである。すでに50冊ほどの関連本をめくったが、一連のこの作業を終えれば、ひょいと、すべて忘れてしまう可能性がある。

 さて、ここまで急ぎ足でこの本をめくってきた。出版直後の短時間にまとめられた文章、あるいはコメントなのであり、著者たちは、決して十分表現しきれているとは言えないだろう。しかしまた、練り上げる時間がないうちにアップしなければならないコメントには、あとあとからでてくるコメントにはない、荒々しいが、より本質的なニュアンスが込められていることが往々にしてある。

 この本は一度、書店で立ち読みし、二回目は図書館から借りて、ひとつひとつコメントをつけてみた。これはあまりに多数の人々の、統一されていない意見と様式だったので、今後の自分が、この本からどのように展開をしていけばいいかの足がかりをつけるためのものだ。タイトルのあとのマークも、暫定的なものであり、他の雑用を処理しながら、片手で読み進めた本であれば、読書そのものに密度の違いがあり、そのような外部的な要素もかなり影響している。ただ5つの場合は、かなりの共感度を持って読んだことになり、次回、もうすこし咀嚼し、時間をおいたところで、再読することがあるとすれば、これらの共感度が高かったチャンネルから、何事かを再開することになるだろう。

 つづく・・・・・だろうか・・・・・?  

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