村上春樹『1Q84』をどう読むか<3>
<2>よりつづく
「村上春樹『1Q84』をどう読むか」 <3>
河出書房新社 島田裕巳 内田樹 森達也他 2009/07 単行本 222p
ひととおり村上春樹作品のうち長編をめくり終わったところで、次は横軸としての評論や解説、研究を読み進めてみようと思う。とくにその交差する原点に、「1Q84」をおくとするならば、この「どう読むか」は大事な一冊となる。
この一冊は40人ほどの人々が関わっているので、読むと言っても一気には読めない。それぞれに切り口が違う。どのようにこの本を読むかいろいろ考えたが、結局は、ページ順にひとつひとつ、短くてもよいからコメントをつけるところから始めたい。これらの人々はほとんどが未知の人々であり、ひょっとすると、意外な新たな展開軸が期待できるかも知れない。
加藤典洋「あからさまなエンターテイメント性はなぜ導入されたか 桁違いのスケールの『世界文学』」p6 ★★★☆☆
村上文学を最大限に理解し評価している人らしい。1948年生れ、文芸評論家。村上sく品の中のエレベーターと井戸について着目しているところが興味深い。「面白いのは、村上の作品で井戸という形象は、実は井戸という形のほかに、エレヴェーターという形でも現れていることです。エレヴェーターというのは、井戸を逆さまにした形をしている。」p9 「ねじまき鳥~」3から「スプートニク~」の間の期間に疑念をもってしまった当ブログの読み方からすれば、この「井戸&エレヴェーター」の在り方は、なんらかのキーになる可能性がある。
安藤礼二「王を殺した後に 近代というシステムに抗う作品『1Q84』」p13★★★★☆
1967年生れ、文芸評論家。天皇制や三島由紀夫をこの作品にぶつけてくるところは独特。さらに出口王仁三郎にまで言及する。「三島が『英霊の聲』で依拠したのは、出口王仁三郎の「大本」から分かれた友清歓真の鎮魂帰神法です。」p15 深読みしていあけば、どこまでも物事をオーバーラップさせることはできるが、限界はあるはず。表現として使われている言語群は唐突なイメージがあるが、指摘しようとしている点は重要なことだと感じる。
島田裕巳「これは『卵』側の小説なのか」p19★★☆☆☆
すでに島田についてはメモしておいた。読みなおしてみても大きく印象が変わることはない。あえて「1Q84」と麻原集団を結びつける意図は、当ブログにはなかったが、島田においては、それは避けられない事実としてある。「ひょっとしたら、村上さんは、強い孤独感を感じているのではないでしょうか。(中略)日本のなかにうまく居場所を見いだせていないせいなのではないか。」p23 世界のポピュラリティーを目指そうとする村上が、あえて日本に居場所を見つける必要もないとは思うが、もっとうまく「日本的」なものを「利用」しようとしているかも知れない、という予感はする。
四方田犬彦「幻談」p25★★★☆☆
割とフラットな感想を持っており、多くの「訳知り」の読者の代表的な意見のように思える。「イスラエルのユダヤ人もきっと『1Q84』を必要としていると思うな。」p28 発想自体はユニークだが、どうも評論家的ニュアンスが過ぎて、自らが、ではどうするか、という視点がいまひとつ分からない。1953年生れ、作家。この人については、その評論よりも、この人自身の作品から追っかけていくのがいいのだろう。
森達也「相対化される善悪 オウム真理教事件から14年経て辿り着いた場所」p29★★☆☆☆
森については「こころをさなき世界のために」他、何冊か目を通した。1956年生れ、映画監督。彼は独特の感覚で麻原集団当ブログでは教団名とチベットのマントラ「OM MANI PADME HUM」の混同をさけるため、あるいはいたづらなアクセス数を増やさないために、一貫してこのような表現を使ってきた)にシンパシーを寄せ続ける。「1995年を境界に社会は変わった。」p30 かの集団を触媒とし(p31上段)なければならなかったのは、不幸だったと思う。それ以外の可能性はなかったのか。歴史に、もしも、はないが。
内田樹「『父』からの離脱の方位」p34★★★★☆
内田の「村上春樹にご用心」は当ブログ<1.0>の最後の一冊。この本に引っ張られるような形で、現在<2.0>において、村上おっかけが始まり、いまだに続いている。まだ終わる気配はない。「カミュやレヴィナスはそう教えている。(略)村上春樹もまた彼らと問題意識を共有しているというこについては確信がある。」p37 確信があるのは、村上なのか、内田なのか。もしここに共有意識があるとするならば、それはひとつの糸口となる可能性がある。
沼野充義「オーウェル、チェーホフ、ヤナーチェック 『1Q84』をより深く楽しむための注釈集」p39★★★☆☆
1954年生れ、ロシア文学研究者。「どうして、他ならぬ1984年なのだろうか? この年が選ばれたのは、村上春樹にとって、またオーウェルにとって必然的なものだろうか?」p39 オーウェルについての意外な解説、あるいはチェーホフについての展開がある。しかし、それにしても、この人も1954年生れだが、天吾と青豆が1954年生れに設定されたのは、なんの因果があったのだろうか、と同じく1954年生れの私は思う。
五十嵐五郎「ねじれた都市と歴史の物語」p47★★★☆☆
以前、五十嵐著「新宗教と巨大建築」を読んだ。1967年生れ、歴史家。「1984年は、オウム真理教が活動を開始した年でもある。彼らは渋谷のマンションの部屋を借りて、オウム神仙の会として活動を開始した。」p49 高山文彦「麻原彰晃の誕生」を読んだりすれば、かならずしも、どの地点をかの集団性のスタートするかはむずかしいところだが、あえて1984に故事つけることと、この小説との因果関係を探ることは、かならずしも容易ではない。
川村湊「なぜこういう物語が展開されなければならかなかったのか」p53★★★★☆
1951年生れ、文芸評論家。「村上春樹をどう読むか」2006/11(当ブログ未読)がある。「(前略)かなりずれが出てきたんじゃないかな。村上春樹はこの作品を一体誰に読ませようとしたんだろうか。」p56 わりとすっきりと読み込んでいる。いろいろな支線についての平易なチェックが、当ブログにとっては便利で、今後活用できそう。なにはともあれ、著書を読みたい。
石原千秋「いまのところ『取扱注意』である」p57★★★★☆
1955年生れ、日本近代文学研究者。著書に「謎とき村上春樹」がある。「いつの頃からか、村上春樹はいつ終わるともしれない『大きな物語』を書き続けているようだ。それを可能にしているのは、村上春樹の自己神話化である。」p65 独特の視点ではあるが、なじんでみれば、なかなか妥当性がある。ご説ごもっとだが、出口が見えない。
佐々木中「生への侮蔑、『死の物語』の反復 この小説は間違っている」p67★★☆☆☆
1973年、哲学、理論宗教学者。「村上春樹はオウム的な物語に抵抗するとはっきり言っていた。だからこの死の物語にこそ抵抗しなければならないはずです。しかし、この『1Q84』がそうのような小説になっているか。なっていない。逆です。」p68 なになに的という引用の仕方はあいまいであり、どこに線引きをするかによって、対称化のされかたは、まったく自由かつ恣意的に引用されてしまう。そのままではとれない。
斎藤環「ディスクレシアの巫女はギリヤーク人の夢を見るか?」p73★★★☆☆
1961年生れ、精神科医。「『文学』の精神分析」2009/05(当ブログ未読)がある。当ブログの現在進行形の中では興味深い一冊になりそう。「ふかえりの物語は一種のワクチンだ。天語によるリライトは、抗原を弱毒化して病原性のないワクチンを精製する作業に似ている。」p80 なんであれ、そもそも人はなぜ小説なんぞを読むのであろうか。なんであれ、人はなぜ生きていくのであろうか。問いかけの原点に戻る必要を感じる。
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