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2010/01/28

村上春樹『1Q84』をどう読むか<4>

<3>よりつづく
村上春樹『1Q84』をどう読むか
「村上春樹『1Q84』をどう読むか」 <4>
河出書房新社 島田裕巳 内田樹 森達也他 2009/07  単行本 222p

平井玄「並行世界と小人たち 反復脅迫をめぐって」p81★★★★☆

 1952年生れ、音楽評論家。「この小説は死に取り憑かれた人ばかり。新左翼的な終末論の反復脅迫に村上春樹は呪縛されている。」p84 この人の評論はかなり鋭角的だ。いまどきめずらしく、とんがっている。言辞的にはわかりやすいが、心情的にはすでに距離を感じる。ここから先が見えるとは、なかなか思えない。だが、このような見方も必要だ。

鴻巣友季子「何がではなく、どう書かれているのか? 見かけにだまされないように」p85★★★☆☆

 1963年生れ、翻訳家。「『1Q84』こそかねてから予告していた『総合小説』である、との発言と解釈していいだろう。」p90 楽曲的に理解できる可能性を展開している。その素養のない私には、まったくなぜそんなことをしなければならないのか、わからない。まぁ、そういう読み方ができる読者がおり、、そういう読まれ方ができる作品を書く作家がいる、ということだろう。で、本質は、どこに?

小沼純一「『1Q84』、聴くことの寓話」p92★★★☆☆

 1959年生れ、音楽文化論研究者。この人も積極的に音楽的に理解し読み解こうとする。「ファンファーレの提示と再現、そのオーケストレーション上の構造が、ぼくには『1Q84』の二人の人物のありようと重なっているように見えてしまう。」p98 どのように解釈するかは読者の自由だ。自由に読み解かれるように書かれている(らしい)。

鈴村和成「似ることは、覆すこと 村上春樹と『1Q84』の透明世界」p99★★★★★

 1944年生れ、文芸評論家。「村上はこの長編で初めて、ブレヒトの『異化』に似た手法をヒロインに適用した。読者は青豆に理想化された自己の像を見ることはできない」p101 鈴村はこの小説に対し、もっとも積極的果敢に麻原集団を引き寄せて解読することを試みるが、それは一つの極ではあるが、もっとも妥当なもの、とは限らない。「1Q84年の時代の空気であり、2009年、あるいは200Q年の時代の空気である」p101 う~む、鋭い。

永江朗「私のリトル・ピープル」p106★★★★☆

 1958年生れ、フリーライター。「『1Q84』じゃなくて、『1Q94』もしくは『1QQ4』でもよかったかもしれない。松本サリン事件の年として、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件の前の年として。」p108 なるほど、当ブログにおけるパラレルワールド「1Q95」は、さらに「1QQ5」へとスライドしていく可能性があるのだ。著者はネット社会への思いがつよく、小説そのものへの突っ込みはいまひとつもの足りない。

岩宮恵子「十歳を生きるということ 封印された十歳の印としてのふかえり」p113★★★☆☆

 1960年生れ、臨床心理学者。著書に「思春期をめぐる冒険 心理療法と村上春樹の世界」2004がある。「1Q84年から25年たった200Q年に自分が生きているような感覚が今も続いている」p113 なるほど、複数の人が「200Q年」を意識し始めていた。村上作品への独特ののめり込みを見せる著者だが、あえて、十歳、をキーワードとして、作品と自分との距離感の確認を試みる。

千野帽子「200Q年の文藝ガーリッシュ。村上春樹『1Q84』/ふかえり『空気さなぎ』を勝手に読む」p119★★★☆☆

 1965年生れ、文筆業。「読書とは結果ではなく過程にこそ、途中経過にこそ存在するものです」p125 オーソドックスな「文学」世界に、この「1Q84」を置いて、じっくりと読みほどいている。すべての可能性を予感しながら、なにはともあれ現在の自由を確保している。それでもなお、どこかにオーソドックスな骨子が感じられる。

大森望 X 豊崎由美「『1Q84』メッタ斬り!」p126★★☆☆☆

 1961年生れ、SF翻訳家 X 1961年、書評家。大森「どう呼ぼうが読者の勝手だと思うんですよ。」p127 豊崎「みんな自由に読むがいいよ!」p127 ここまで話が来れば、あとは早い。チャン、チャン。いろいろな評論があっていい。いろいろな放言があっていい。それを誘発するのも、もともとの作品の力であろうし、余力であろうし、不可避的不協和音のなせる技であろう。

栗原裕一郎「五反田君をマセラティごと海から引っ張り上げて、青豆の前に横付けさせよ!」p134★★★★★

 1965年生れ、文芸評論家。「春樹の『伏線まき散らし症候群』はいまに始まったことじゃないので予測もしていたとはいえ、広げた風呂敷にアイロンをかけシワを伸ばして放り出すとまではさすがに想像しなかった。」p135 村上作品を独特の読み込みをしつつ、積極的にカウンターパンチを繰り出そうする姿勢がなんともよい。このタイトルそのものがなんだか、新たなる栗原自身の小説として成立しそうだ。

可能涼介「陰謀文学者としての村上春樹」p139★★☆☆☆

 1969年生れ、文芸評論家。「初期の村上は、『セックス』や『暴力』や『三人称小説』は『あえて』書かないと発言していた記憶がある。」p140 この雑感集の中においては、分量もすくなく、一読者としてのナイーブな面が目立つ。すなおに読めば、こういうことなのであり、一般的な読者の感覚とはこういうものではないか、という典型。

円堂都司昭「秋葉原通り魔事件以後に『1Q84』を読むこと」p143★★★☆☆

 1963年生れ、ミステリー、音楽評論家。「スルスルと面白く読めるにしても、終わってみれば作者がなぜそう書いたのか、納得できない部分が多い。」p147 特異な事件を、マスメディア上の情報量に影響される形で突出した形で取り上げることは、それだけでもうすでに歪んだ社会に取り込まれていると言っていい。かと言って、個人的な心象のみを社会的表象から切り離してメモしつづけても、一般性をもたない。味付けのバランス次第、というところがある。

武田徹「感傷を超える批評はそこにあるか。」p148★★★★★

 1958年生れ、メディア論。著書に当ブログで以前読んだ「NHK問題」のほか、「流行人類学クロニクル」や「若者はなぜ『繋がり』たがるのか」などがある。「もちろん何をどう書こうが作家の自由だ。だが、こと新宗教は舞台装置として利用するだけして、投げ捨ててしまえるほど軽いものなのか。」p149 特定の実在する(した)集団と、小説の中の集団を、限定的にひも付きにすることはできない。それはイメージを借りてはいるかもしれないが、むしろまったく別個の集団と理解したい。村上が利用するだけして、投げ捨てようという意志があったとすれば、ここで「1Q84」は書かなかっただろう。まずは、そう願いたい。

<5>につづく

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