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2010/01/22

ねじまき鳥クロニクル(第2部)予言する鳥編

<第1部>よりつづく

ねじまき鳥クロニクル(第2部)
「ねじまき鳥クロニクル」(第2部) 予言する鳥編 
村上春樹 1994/04  新潮社 単行本 356p
Vol.2 922★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 この小説を読み解くにあたって、あるいは村上春樹という作家をめぐって、さらにはそれらをとりまく読者や翻訳者やら評論家やら、あるいは私のような通りがかりの野次馬を含めたハルキワールドを読み解くあたって、「ルーツ&ウィング」という、たまたま思いついたスケールの目盛は、有効に役立ってくれそうな気がする。

 第1部は「新潮」に10回に渡って連載されたものに手を加えられて出版されたことがわかっている。第1部と同時に出版されたこの第2部について、本書においては、とくにその経緯は書いてあるところはない。この第2部は書き下ろされたと考えていいのだろうか。

 ウィキペディアをみると、それなりの背景がわかってくるが、とにかくここはあまりそれらに拘泥しないで、「物語」のなかに集中することにしよう。第3部は、一部を除いて書き下ろされた、と明記してある。第3部は、1995年の8月に出版されているから、麻原集団事件発覚後の出版となる。

 それがまる二日間続きました。同じことの繰り返しでした。溢れかえる光の中に何かがそのかたちを浮かび上がらせようとし、そして果たせぬままに消えていくのです。私は井戸の中で飢え、渇いておりました。その苦しみは尋常なものではありませんでした。しかしなおかつ、そんなことは究極的には大した問題ではなかったのです。私が井戸の中でいちばん苦しんだのは、その光の中にある何かの姿を見極められない苦しみでした。見るべきものを見ることができない飢えであり、知るべきことを知ることのできない渇きでありました。p66

 村上作品にでてくる「井戸」はなにかの象徴として多用されており、それはおなじ「象徴」として、クンダリーニが上下する通路=スシュムナーのようなものと解釈する道も残されている。それは「エレベーター」としてもでてくるが、厳密な意味で、「科学」的に使われているわけではない。それはイメージであり、より確かなものへの足がかりとしての導入小道具として使われていると言っていいだろう。

 第3部はいざ知らず、この第2部においては、「ルーツ&ウィング」の目盛で言えば、井戸の底深く、漆喰の暗黒にただようエネルギーを撹拌することを持ってのみ、ストーリーが展開しているように思える。たしかに天の上に、光や星なりを認めることはできないでもないが、それは翼を持って高く飛ぶという感覚ではない。ねじまき鳥は、いまだ飛ばない。

 もう一度頭上を見上げ、星を眺めた。星の姿を見ていると、心臓の鼓動は少しづつ安らかなものになっていった。それから僕はふと思い出して、暗黒に中に手を延ばして井戸の壁にかかっているはずの梯子を捜した。でも手は梯子に触れなかった。p145

 多用されるシンボル、錯綜するストーリー、あいまいな登場人物たちの境界線。そこに読者は自らの「物語」を重ね、自らのうちに自らの物語を再構成するチャンスを与えられている。そのチャンスを有効に使うこともできるだろうが、ただただまどろっこしい、と感じる私のような読者も多々存在するに違いない。

 でも僕はねじを巻くことのできない無音のねじまき鳥として、しばらく夏の空を飛んでみることにした。空を飛ぶ おは実際にはそれほどむずかしいことではなかった。一度上にあがってしまえば、あとは適当な角度にひらひらと翼を動かして、方向や高度を調整するだけでよかった。僕のからだはいつの間にか空を飛ぶ技術を呑み込んで、苦労もなく自由自在に空に浮かんでいた。僕はねじまき鳥の視点から世界を眺めた。ときどき飛ぶのに飽きると、どこかの樹の枝にとまり、緑の葉のあいだから家々の屋根や路地を眺めた。人々が地表を動きまわり、生活を営んでいる姿を眺めた。でも残念なことに僕は自分のからだを自分の目で見ることができなかった。ねじまき鳥という生き物を一度も見たことがなかったし、それがどんな姿をしているのか知らなかったからだ。p157

 ルーツ&ウィングは、ルーツでありウィングである感覚だ。それは同時に存在する全体的感覚だ。ルーツだけとか、ウィングだけではない。そして無化した自分は明瞭に見えている。

 (前略)カザンザキスはこのクレタ島を舞台にして長編小説「その男ゾルバ」を書いた。僕がクレタ島について案内書から得ることのできた知識はだいたいそれくらいのものだった。そこでの実際の生活がどのようなものなのか、僕にはほとんど知るすべもなかった。それはまあそうだろう。、旅行案内というものはあくまでそこを通り過ぎていく人々のための本であって、これからそこに腰を据えて住みつこうという人間のために書かれているわけではないのだ。p269

 深く大地に根ざそうとしていながら、村上作品には、「その男ゾルバ」のような土着性、享楽性、歓喜、笑い、が今一つ湧いてこない。中腰で、軽く、通り過ぎようとしているかのようなポーズをとり続けている。だがしかし、本音は、深く根差し、ゾルバのように大地に生き、そしてなおかつ天高く星々と暮らしたいと願っている。ねじまき鳥のルーツ&ウィングはいまだ見えず。

<第3部>につづく 

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