ふりかえったら風3 北山修の巻
「ふりかえったら風3」(北山修の巻)) 対談1968ー2005
北山修 2006/02 みすず書房 単行本 ページ数: 275p
Vol.2 No896★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆
当ブログにおける「フロイト 精神分析」追っかけ、そして北山修ふりかえりは、ほぼ中間地点をすぎて、あとは落としどころを求めて、高度を下げる段階にきている。この「ふりかえったら風」シリーズは三部作で、きたやまおさむの巻、キタヤマオサムの巻に続き、この北山修の巻で完結という運びで、それぞれの名前の表記の仕方になにごとかの意味あいがあったはずだが、当ブログにおいては、それほど重要なポイントではない。
ここまでめくって来て、この巻で特筆しておくべきことは「私はどうして心を扱う医者になったのか」p248あたりだろうか。
具体的に言うと、思春期の時に理髪店に入って、髪を切ってもらっていると鏡の中で別の人物が私を見ているんdねす。それを言うとみんなに笑われるんだけども、これが野菜なんです、必ず。トマトだとか、ナスビだとか、リンゴだとかが私に話しかけてくる。もちろん鏡だから私の分身でしょうけど、語りかけてくるんです。それで、周りを見渡すと全然そのことに気づいていないし、おかしいな、どうしてみんなはこのリンゴたちと話さないんだろうとか思っていたんですけど、みんなが知らないふりをしているから、こういうことは黙っていたほうがいいだと思っていましてね。それは、そのうち消えていきました。いつ消えたのか全然覚えていません。でも一時期ずっと続いていました。p249
少年期、あるいは思春期における「鏡」では、私も私なりの思いでがある。どこかに書いておいたが、後でまたメモすることにする。「鏡の中のアリス」などでも取り上げられるテーマでもあるし、また茂木健一郎なども、少年の時に、「ただいま」と我が家に帰ったときに、誰もいなくて、ふとこの「ただいま」と言っている自分は誰だろう、という思いにとらわれたという体験を、繰り返し語っている。
そういう経験があったんで、私はこういうものを取り扱うっていうか、そういうものを一緒に考えてくれる人が欲しいなと思ったんです。今から振り返ると精神分析家になった原点はいくつもあるけれども、これはその一つです。目に見えないものに関心があったし、それを一緒に共有してくれる誰かがとても欲しかった。そうすると安心するしね。そういう経験が理由としてあります。p250
それが精神分析家になったきっかけの最大のものではなかったとしても、その思春期の思いをずっと持ち続けている、ということは精神分析家としてはとても重要なことであると思う。
今、これから医学の中で主流になるのは精神科と整形外科と眼科と言われているんですが、なぜか言うと高齢者が増えるからで、だから、治すと言っても、クオリティ・オブ・ライフという言葉があるんですが、より良く生きるということを一緒に考えているんです。p250
精神分析医としての北山を考える時、この「一緒に考える」ということをなぜもう一歩進めないのか、不思議に思うときがある。自分を「治療者」の立場に置き、「患者」の「病気」を治す、という視点から、たとえば寝椅子(カウチ)に横になった患者の背後でその自由連想の話を聞く、というスタイルをいつまでとり続けるのだろう、と思う。
このスタイルを劇的に変えたのはたとえばカール・ロジャース「エンカウンター・グループ」だけれども、それは誰かが誰かを治す、ということではなく、ひとつの集団性の中で、グループ・ダイナミクスの中で「気づき」が起こり、「癒し」が起こる、というメカニズムを、もっと積極的に採用してはどうなのだろうと思う。
エンカウンター・グループは、ファシリテーター(促進者)として、数名の専門家が入るわけだが、誰かが誰かを治療する、というより、もっと「自然な」エネルギーの動きに身をまかせることができる。もちろん、ファシリテーターとしてそのグループの中に「いる」ことによって、ファシリテーター自らが「癒される」ことも多くある。あるいは、それでなければ、ファシリテーターは長くはつとめることができない。
北山は、随所で、精神分析医としての苦労話を語る。一日に限られた「患者」しかみることができないし、仮に見たとしても、長期的には10人程度の「患者」としかつきあうことができない。そして、他人の「悩み」を聞くのは疲れる、という話を連発する。この辺が、北山の限界であるし、いわゆる「フロイト 精神分析」の限界でもある。
精神医学をやりたかったんですが、すぐには精神科ができなくて。また、何にも体の治療ができないまま医者になるのも変な話だなぁと思ったものですから、やっぱり注射を打ったり、血圧を測ったりがある程度自然にできるような医者になろうと思って、まず内科をやったんです。p252
揚げ足をとるようだが、注射を打つ程度なら、看護士にもできるし、血圧を測るなら、私などのドシロートでも毎日自宅で計測できる時代になっている。もちろん資格などはいらない。ただ、この辺に、精神医学、というものの「科学性」が問われる。いや「科学」そのものが問われているのだろう。体そのものを「修理」するだけなら科学オンリーでも問題がなかろうが、精神となると、そうは行かない。あるいは、精神を扱うなら、本当は「医学」でなくてもいいのではないか、と思えてくる。
それから二年間過ごして、それでもやっぱり精神医学をやろうと思いました。ところが大学はさっきのような状態でしたので、ある日図書館で外国の医学雑誌の一番最後のアナウンスメント欄に「研修医求む」という広告が出ているのを見て、これは外国に行こうと思いました。p252
この辺で留意すべきは、彼はここではまだ「フロイト 精神分析」を自らの道として選んでいないことである。
精神医学の知的な勉強は一応日本でもやっているわけだから実習に何を選ぶかということで、見渡したところ、行動療法という治療法が目にとまりました。(中略)その病院では精神分析的な治療法もやっている一方で、行動療法もやっていたんです。p254
時代は1970年代中盤から後半にかけてのことである。
その後、個人分析を受けて、精神分析医となる。
今から考えるならけっして十分なトレーニングではありませんでしたが、精神分析的な精神療法家になったんです。だから人を癒すとか、人を治すとかが私の仕事だとは思っていないんです。一言で言ってしまえば、精神療法とか精神分析を商売にしていますけれども、私がやっているのことというのは自分の言葉でああだこうだと考えるための時間を保証し、そのことによって人生の物語を紡ぎ出し、それを生き直していくという、そんなことを目標にしたいわけです。p256
すでに還暦も迎えられてからもうだいぶ経過した人に、2002年当時のインタビュー記事とは言え、それをもとにああだこうだいうのも失礼だが、どうもこの「人生の物語を紡ぎ出し」というところは問題あるのではないか、と思う。本来、人間は、この物語性を遠く離れて生きていく必要がある。人は自ら作り出した「物語」を「城」だと思っているが、実は「牢獄」であることが実に多い。人生の物語性は、破棄されなければならない、というのが、現在の私の主張である。
---精神分析を選ぶ時に影響を受けた人とかはいたんでしょうか。
精神分析と言うとS・フロイトなんですけれども、フロイトはあまりにも堅い人で。もう一人、遊ぶことや私の音楽をやっていることなんかも受けいれてくれたD・W・ウィニコットちう、イギリスの精神分析家で、小児科がいたことが大事です。p261
一回限りの人生である。それぞれの人生の場面において、それぞれの出会いは変えようのない事実として残る。もし北山が、ビートルズを追いかけてイギリスに行かず、アメリカの大学に留学していたら、きっと違った精神科医が誕生していたのではないか、と想像するのは、単に一読者の自由連想にすぎない。
もし、エンカウンター・グループのファシリテーターのような役割を果たしているような存在になり得たら、彼は、きたやまおさむ、キタヤマオサム、北山修、なんて、みっつの分裂した自己を抱える必要はなかったであろう。むしろ、北山修、という名前にさえこだわらない、もっと透明な存在になり得たのではないか。そう思う。もちろん、一読者の、自由連想であるが・・・・・。
P152には小此木啓吾との対談「現代社会と境界パーソナリティ---隠喩としての病理現象」が収録されている。1990/10「イマーゴ」誌上の対談の再収録だが、突っ込みどころは多い。小此木について思うところもあるが、別な機会に譲る。
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