ねじまき鳥クロニクル(第3部)鳥刺し男編<1>
<第2部>よりつづく
「ねじまき鳥クロニクル」(第3部)鳥刺し男編 <1>
村上春樹 1995/08 新潮社 単行本 492p
Vol.2 927★★☆☆☆ ★★☆☆☆ ★★☆☆☆
正直言って集中力が途切れた。第1部も面白かったし、第2部もそれなりに読んだ。しかし、この第3部は、自分が読み進める理由がなくなってしまっていた。ひとつには、「ルーツ&ウィング」という自らの「物語性」を、この小説のなかにオーバーラップしてみようという試みが早々と失敗してしまったこと。そしてふたつめには、この小説が1995年8月に出版されていることの意味を考えてしまったからである。
とくに後半にコンピュータ関連のモチーフが多出してくる。ウィンドウズ95日本語版が発売されたのは確か1995年の12月ころだったはずなので、この時点ではウィンドウズは3.1であったはずだ。村上は確かマック派を気取っていたはずなので、この範疇にははいらないかもしれないが、しかし、この95年においてIT(インフォーメーション・テクノロジー)の世界は一変した。そして数年のうちにインターネットが日常のものになり、ネット社会の現出が現実のものとなった。
しかし、この1995年初頭には、とてつもない「現実」がさらに二つ起きていた。ひとつは阪神淡路大震災であり、もうひとつは麻原集団事件の発覚である。これらの三つの出来事は1995年を象徴する事件であり、また、1990年代を象徴していると言っても過言ではない。この作品の第2部は1994年4月に出版されているわけだから、その時点から第3部が準備されていたとして、その書き下ろしに向けて盛んに書かれている最中に、この「1995年」がやってきてしまった、ということになる。
村上作品の流れをみると、この「ねじまき鳥~」までの作品と、そのあとの「アンダーグランド」や「約束された場所で」以降の作品では、まったく別な流れになっている。本当にそうかは新参読者である私には確固たる自信はないが、そうあってほしいという期待はかなり大きい。そして、その端境期にあったのが、まさにこの「ねじまき鳥クロニクル」<第3部>であったはずである。
たとえば、私はこの第3部がでた1995年の8月に、この「ねじまき鳥~」を熟読している自分を想像できない。それは無理だと思う。リアリティがフィクションを超えてしまった時代が1995年という年廻りだった。まぁ、そうであったとしても、2010年の今、ゆっくり第3部を読んでもいいのではないか、とも思うが、しかし、この第3部をパラパラめくりながら、どんどんリアリティに先を越されてしまう「プロの嘘つき」村上春樹のフィクションが、どんどん力を失い、無化されてしまう過程が目に浮かんでしまうのである。あわてている村上の姿が見えてしまう、というべきだろうか。
この作品(とくに第3部)が一般的にどのように評価されているのか、知らないが(これから調べてみるつもり)、もし本当に重要なパーツであるならば、再読することもやぶさかではない。しかし、それにしても、石原千秋の「謎とき」などをもって対処しなければならないような「文学」なんぞ、それこそ、猫か羊のエサにでもしておけばいいのではないか、とさえ思う。
結論めいておけば、村上春樹は抜けてねぇだろう。確かに抜けてない。で、抜ける、ってなんだろう。ルーツも試みられた。ウィングも試みられた。だが「ルーツ&ウィング」には到達していない。あるいは、自分が自分の「ルーツ&ウィング」を表現し体験し、そしてその中にあるとき、自分は村上的表象を、必ずしも必要とはしていないのだ、ということを再確認したにとどまる。
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