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2010/01/31

MURAKAMI 龍と春樹の時代

MURAKAMI―龍と春樹の時代 (幻冬舎新書)
「MURAKAMI」 龍と春樹の時代 
清水 良典 2008/09 幻冬舎  新書: 276p
Vol.2 950★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆

 村上春樹追っかけも延々と際限のないものとなり、その迷宮にどこまでも遊ぶことは可能であろうが、当ブログの本来の目的はそこにない。個人作家としての村上春樹を追い、それを取り巻くエネルギーとして渦巻くクラウドソーシングとしての「ハルキワールド」もなんとなくイメージできてきた。しかし、そこからパラレルワールド「1Q95」への抜け道を探検し、さらなる「1QQ5」へと、突き抜けていくことこそ、当ブログの目下の路線である。

 清水良典の名前は、「文學界」 2009年08月号の「1Q84」特集や、「村上春樹『1Q84』をどう読むか」2009/07にも見える。1954年、奈良県生れの文芸評論家。他には「村上春樹はくせになる」2006/10 などがある。私もおなじ年の生れなので、時代体験としてはまったく同じ日本列島のなかで、似たような時系列を生きてきた、と言える。

 この二人を抜きにしては同時代の文学は語れない。二人の同時代の作家として、私たちは生きてきたのである。二人の作品は私たちの時代そのものなのだ。その二人の代表作を並べて読むことで、この30年の時代の流れを見つめなおしたい。私たちはどのような時代を生きてきて、今どのようなところにいるのかを考えたい。p3

 当ブログは、「同時代の文学」を語る目的で設定しているのではないので、とくにW村上がいなくてもとくに困ることはない。さらにいえば、この二人をなぞることによって、この30年を見つめなおすことにはならない。同じような意味では、たとえば中沢新一を読みなおすことで、この30年を考えることができるだろうし、あるいは、北山修を読みなおすことだって、大切なことになるだろう。ひいては、荒岱介を読みなおしてみることだって、大切なことになるだろう。

 まぁ、しかし、ここで意地悪なことを言っていてもしかたない。当ブログは、現在、村上春樹をおいかけているのである。カテゴリ「クラウドソーシング」もこの書き込みですでに103番目となる。各ブログの定量を108と決めて、一旦フリーズしてしまうのは、当ブログの作法なので、あと5冊ほどで、ふたたび、村上春樹おっかけは中断(終了となる可能性もある)したい。

 そういった意味ではなかなか興味深い一冊ではある。この二人の対談「ウォーク・ドント・ラン」がでたのは1981年のこと。それにさかのぼること、龍の「限りなく~」や春樹の「風の歌を聴け」がでたのは、たしかにすでに30年以上の前のこと。この二人の名前がどこかで語られ続けてきたのは確かなことだ。

 この本では、時代を三つに区切っている。76~85、86~95、96~05、とちょうど10年単位になっているが、85年と86年の間には特に大きな断絶はない。むしろ、95年と96年の断絶はとても大きいといえるだろう。本書では、ちょうどここに区切りをもってきてはいるが、当ブログが求めるような意味では、あまりその区切りを重要なことと見ていない。

 当ブログはどうしても、社会的な区切りのほうに目が行っており、本書のような「文学」の面から考えれば、そのショックはやんわりと受け止められている感じがする。このやんわり、というところが、当ブログとしては、いわゆる「文学」なるものに感じる距離感、ということになる。

 精神分析を文学作品に応用して、作中人物を分析する方法はよく行われるが、私はその方法自体にはほとんど興味がない。精神分析とは、すべて臨床医がめいめい作り上げた野心的な仮説にすぎない。さらにフロイト、ユング、クライン、ボス、ラカンなど、さまざまな学派が弟子たちの勢力に分かれて対立していて、どの分析が正しいかを客観的に判断することは不可能だし、そんな議論は無意味である。p125

 当ブログでは、村上春樹の前は、北山修を一つの表象とした「フロイト 精神分析」をおっかけていた。ましてや、最大のテーマは「ブッタ達の心理学」と決まりかけている当ブログにおいて、ここでの清水良典の腹立ちは理解できないでもないが、オール・オア・ナッシング的に、心理学全般をバッサリと切り捨てることはできない。

 「海辺のカフカ」から「アフターダーク」にかけて見られるように、村上春樹はメタファーを駆使した象徴的な作風をいよいよと深めつつある。神秘的な出来事や暗示的な言葉のネットワークによって構築された「SF(サイエンス・フィクション)」ならぬ「SF(スピリチュアル・フィクション)」といえばいいだろうか。一見現実に背を向けて瞑想的な内的世界に籠っているようだが、実はそれは混迷を深める時代で生きる道を見出そうとする彼ならではのアプローチなのだ。p274「あとがき」

 この文脈における意味においての「スピリチュアル」や「瞑想」という単語の使い方には、当ブログとしては、一言いっちゃもんをつけておきたくなる。しかし、それはやめておこう。文学は、文字であらわされた芸術であってみれば、本や文字における検証は比較的可能性を残しているが、「スピリチュアル」や「瞑想」は、本や文字では検証が不可能だし、「論争」にもあまり向かない。

 ただ、本当にここで清水良典がいうような形での方向性が、今後の村上春樹にでてくるのかどうかを見定めたい期待は持っている。つまり、コンテナとしての小説、コンテンツとしての「ハルキワールド」、そして、コンシャスネスとしての「1QQ5」(仮称)へと、飛翔する可能性はあるのだろうか。村上春樹は、私たちの時代の瞑想を深めるスピリチュアル・ノベル(フィクションという言葉はあまり好きではない)足りえるのかどうか、というところに、今後のテーマは移っていく。

 すでにまとめに入っている村上春樹追っかけではあるが、その意味では、この本は出版年も近年のことであり、おおいに何事かを意識させられた、リアリティ溢れる一冊だった。 

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