ノルウェイの森 <3>
「ノルウェイの森」(上) (下) <3>
村上春樹 1987/09 講談社 単行本 267p 260p
Vol.2 No909~910★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
読みながら、すぐ思い出した。この小説はもう読んでいる。明らかにこのストーリーを知っている。いや、別に既視感とかデジャブなんて上等なものではない。明らかに読んでいるのだ。で、すこし早めの斜め読みを始めようとすると、知らない場面もでてくる。う~ん、オレの読み方も結構いいかげんだから、前回はずいぶんととばし読みしたのかも知れない。
などと思ってはみたが、どうも変だ。どうや、この「ノルウェイの森」は、すくなくともバージョンが3つあり、最初に1987年当時にでた単行本と、1991年にでた文庫本と、2004年にでた文庫本がある。我が家に残っていたのは1991年の文庫本だが、前回紹介するときには、アフェリエイトも意識して、現在店頭で入手可能な2004版の文庫本にリンクを張っておいた。
だんだん読み進めていて、以前自分のブログにも書いたことも思い出しながら、ああ、これは、かつて書かれた短編をいくつか混入して書かれたものだということが分かった。確信を持ったのは上巻を読み終わる頃。
今回は、この3つのバージョンのうち、「あとがき」が書いてあるのはこの最初の1987年版しかないと、どこかで知ったので、今回は、図書館から借りて1987年版を読んだ。
この小説は五年ほど前に僕が書いた「蛍」という短編小説(「蛍・納屋を焼く・その他の短編)に収録されている)が軸になっている。僕はこの短編をベースにして四百時詰三百枚くらいのさらりとした恋愛小説を書いてみたいとずっと考えていて、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の次の長編にとりかかる前のいわば気分転換にやってみようというくらいの軽い気持ちでとりかかったのだが、結果的には九百枚に近い、あまり「軽い」とは言い難い小説になってしまった。たぶんこの小説は僕が思っていた以上に書かれることを求めていたのだろうと思う。「あとがき」下巻p259
たぶんそのようなことがあるに違いないとは、読みつつうすうす気がついた。「螢・納屋を焼く・その他の短編」を読んだとき、その感覚はすでにメモしておいた。今回この「蛍・・」をひっくり返しながら、ざっとタイトルだけみてみたが、だがこの「蛍・・」にないもので、どこかで読んでしまっているものも、この「ノルウェイの森」には含まれている。すでにまるまんま「ノルウェイの森」を読んでいるから残っているのか、やっぱりどこかで短編として出版されたものが組み込まれているのか、分からずじまいのところもあった。
というか、そのような詮索をするのは、途中でやめた。「納屋を焼く」だって、本当はもうすでに読んでいたはずなのにタイトル以外すべて忘れていて、短編集「象の消滅」として「アメリカ向け」にそろえられた一編として読んで、初めてその存在を意識した短編もあった。まぁ、あんまり厳密に考え始めないほうがいいようだ。
さて、この小説をブログにメモしておくのにどうしようかな、と思ってyoutubeからビートルズの「ノルウェイの森」の動画でもとってきて張り付けようかな、とも思ったが、そんなことはとっくに自分でやってしまっている。結構、「表現者」としても、私はパターン化していて、型にはまっているなぁ、と自分で失笑。アイディア不足ではないですか。反省。
著者は「A」、「B」、「C」、というカードを使って、「A---B---C」というストーリーを書いてきた。都合900枚だ。それぞれ300枚を三つ足しただけとも思うし、「2*3*3*5*10」のように、乱数的に掛け合わせているようにも思う。あるいは「1000ー100」のようにも思うし、「10+10+10+10・・・・・・・・・・」として行って、=900としたようにも思う。まぁ、結局はどうでもいいことだけど。
結局、読者としての私は、小説の中の場面に呼応する形で、自らのなかに「a」、「b」、「c」・・・・・・と言った自らの持ち札を持っていることに気づかされ、すでに「a---b---c・・・・・」として収めておいたはずのタロットカードの配列を、もう一度シャッフルさせられるような、面倒くさい、苦痛な、そして、不思議な体験を味わうことになる。
できれば本当は、もうそんなことはしたくないのだ。忘れてしまたいのだ。なかったことにさえしたい。遠ざかれば次第に自らの視力では判別できなくなるまで、小さく、小さく、限りなく小さくなって、消えてくれれば一番いいのだ。
だが、この小説を読んでいると、その記憶がありありと浮かび上がってくる。あの時代の、あの体験は、決して消えてはいない。時代を経て、なお強い重みを持ちながら、存在しつづけていることに、気づく。気づかされる。いやおうなく直面させられる。
今になって、どうしようもないことだ。でも、本当に、今となっては、どうしようもないことだろうか。取り返しのつかないことではあったが、本当に、取り返しのつかないことだろうか。やり直しはきかないだろうが、本当に「やり直し」は、できないのだろうか。思いは次から次へ、と逡巡する。
私は、すでにどうやらこの小説を読んでいる。忘れてしまいたかったのかもしれない。そして、忘れてしまっているが故に、もう一度読んでしまう「羽目」に陥った。私は、今回、この小説を「読んだ」ことを明確に覚えておこう、と思う。そうすれば、二度とこの小説を読まなくてもよいかも知れない。すくなくとも、「事故」としては、この小説を読まなくてもすむだろう。
だが、プロボークされた自分のなかの「私」小説「a---b---c・・・」もまた、復活し、次第に蠢き始めてしまっていることを感じる。もう、村上春樹「ノルウェイの森」など読まなくても、その手中に落ちてしまった。再読するか、しないか、という問題ではない。すでに、その原型、プロトタイプ、アーキテクチャは、完全に、私の中に産み付けられてしまった。母親から産み落とされた卵は、母親が立ち去ったあとも、自らの生命のまま、その存在を主張し始めるだろう。
このあとがきを読んで「世界の終わり・・・・」は、この「ノルウェイの森」の前に書かれていたのか、と始めて気がついた。私の手元にはその小説もあり、どちらをを先に読むか考えたのだった。「世界の終わり・・・」はもっと後、つまり90年代中頃に書かれたものかなと、勝手に考えていたが、違った。
あと、最後にひとこと。この小説の表紙デザインは著者自らが、周囲の反対を押し切って「赤」と「緑」にした、ということだ。色彩心理をかじった人なら、ハハン、と思うことだろう。末永蒼生などなら、なおのこと、キチンと説明してくれるだろう。実際にどこかで、きちんとこの小説に触れて、なぜこの表紙の色になったのかについて説明していた。
だけれど、どんなに「分析」され「解説」されたとしても、それを跳ね返すだけの存在力がこの本にある。まぁ、分析とか解説とか、そういうものは逆に邪魔になるだけだろう。村上春樹は、この小説の表紙デザインを「赤&緑」にしなくてはならなかった。
だから、我が家に残されている1991年版の文庫本の表紙デザインは「間違い」だと思う。2004年に出た文庫本の表紙が「赤」と「緑」に戻されたのは、当然のことであるし、そうであるべきである。しかし、当ブログとしては、この「あとがき」が残されたままの初版の1987年版を読むのがベストであると、私は思った。
そして、あちこちで、短編として、断片的に、この小説「的」なものを味わっておいたのは、私なりには正解だったと思う。私はこの小説を、今後「再読」はしないだろう。できないだろう。
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