« カフカの絵本 | トップページ | ‘THE SCRAP’ 懐かしの一九八〇年代 村上 春樹 »

2010/01/23

ウォーク・ドント・ラン 村上龍 VS 村上春樹

Photo
「ウォーク・ドント・ラン」 村上 龍 VS 村上 春樹
村上 龍 (著), 村上 春樹 (著) 1981/07 講談社 単行本: 154p
Vol.2 924★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 1980年7月29日と11月19日に対談したものが、翌年7月に出版された。もうすでに30年前に出された本を引っ張り出してきて読んだとしても、21世紀の今日的な意味においては環境がまるでが違っているわけだから、ストレートな意味では批判も解釈も直接的なものではなくなってしまっている。

 ただ、自分は自分がその年代をどのように生きていたか、割とよく覚えているほうで、この1980年という時代に自分はどのような状況にいて、もし、あそこでこの対談を読んだらどうだっただろうと、想像することはそれほど難しいことではない。

 この年の7月には体調が崩れていて、9月に入院、それから半年間の療養生活に入った。ずっと後で聞いた話ではあるが、その時、家族は「余命半年」の宣告を受けていたという。この年、12月8日にジョン・レノンはアメリカで、一ファンの手によって銃殺された。そのニュースを病院の待合室のテレビでみた。

 あの頃、結構、待合室の週刊誌や売店の本などを結構読んだ気がするが、あの流れでこの二人の対談を読んでいたとイメージしても、やはり、この二人の対談は、当時の私が必要としていたものではなかったのだと思う。

春樹 フロイトというのがぼくはすごく嫌いなんですけどね、精神分析というものがすごく嫌いなの。ノックもしないで部屋に入ってきて冷蔵庫あけて帰っていくって感じがしてね。帰っちゃってから、おいおい、あいついったいなんだ、ということになる。

 ぼくもあんまり好きじゃないんです。いや、フロイト的じゃなくてさ、哺乳類的に。p98

 2010年の現在、「フロイト 精神分析」との対比の中で「村上春樹」を読むことになり、ひととおりの長編を中心に読みながら、副読本的にエッセイやら対談を読んでいるが、こういう意味あいにおいては、あの時代に「フロイト 精神分析」を好きだ、という流れのほうがおかしいだろう。フロイトを自らのライフワークとした北山修のほうが、ちょっと異常という感じがする。

 しかし、こうして両村上の対談を読んでみても、かならずしも文学やら小説という文芸に身をすりよせていたか、というとそれもまったく違う。村上龍は「限りなく~」が衝撃的だったから、掲載された「群像」も、のちに単行本になったものも読んだが、それ以降の作品はまったく読んでいないことに今気付く。

 この時点での二人は、賞をとって、それこそ飛ぶ鳥を落とす勢いの若い二人ではあるが、その小説家としての原点はあるけれど、将来どのように展開するかわからない段階である。その二人の対談がこのような形で単行本に残っているのは貴重ではある。春樹はまだこの時点では生活のためバーを続けているし、龍だって、第一作が売れたからこそ作家として生活はできていたが、さりとて確たる未来の保証があったわけではない。

 そして、この後の二人は、「二人の村上」と言われるほどの活躍をしてきたのだから、今更なにを言う必要もないのだが、この二人の村上が、当時の時代背景を背負っていることは、この対談のはしばしから感じ取ることが十分できるものだし、また、この二人に期待し、ささえてきた、あらゆる角度からの「クラウドソーシング」が存在した、ということを認めざるを得ない。

 さらに言えば、では、それは何だったのか、というソーカツの時期に来ているようにも思う。その答えを、たった二人に問い詰めることはもちろんおかしい。たしかに二人は何かの象徴、あるいは表象として注目は集めてはきただろうが、この二人がなにかをソーカツしなくてはならない、ということではない。

 30年と言えば、あっと言うまでもあるし、またひと世代、あるいは時にはふた世代が交代するほどの、長いスパンでもある。あまりに多用な要素が絡みこんでいるので、区切りをつけることはなかなか難しいが、しかし、これらの人々が何かを表現する表象の役目をしてくれているとするなら、その下にある実態(あるいは塊)を、いまいちど確認しておく必要を感じる。

 そう言った意味合いにおいて、当ブログにおけるクラウドソーシングとしての「ハルキワールド」探求の旅は、少しづつ前進しているようにも思うが、中間的にまとめておけば、結局は、やっぱり「突き抜けて」はいなかったな、という思いが、あらためて強くなってきた。

 突き抜けていないことを持って、二人の村上を責める必要もなければ、そのことを持って時代を批判する必要もない。要は、突き抜けていないのは、時代や集団や共に幻想を見ているからであり、すべては個的な世界に還元され、しいては無化した自分への中にこそ求められるものだと理解することができるならば、それはそれで、探求の成果は徐々にあがっているのだ、と自らを慰めることもできる。

|

« カフカの絵本 | トップページ | ‘THE SCRAP’ 懐かしの一九八〇年代 村上 春樹 »

45)クラウドソーシング」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ウォーク・ドント・ラン 村上龍 VS 村上春樹:

« カフカの絵本 | トップページ | ‘THE SCRAP’ 懐かしの一九八〇年代 村上 春樹 »