村上春樹はどう誤訳されているか 村上春樹を英語で読む
「村上春樹はどう誤訳されているか」 村上春樹を英語で読む Murakami Haruki study books
塩浜久雄 2007/01 若草書房 全集・双書 348p
Vol.2 No911★★★★☆ ★★★★☆ ★★★★☆
「世界は村上春樹をどう読むか」の中で、あるガイジン翻訳者は、たとえば日産スカイランを、どう翻訳するかについて語っていた。そもそも「スカイラン」という車名は国内のものであり、英語のスカイラインという言葉も、どうも女性的な感性に満ちているらしい。日本人のちょっとした「走り屋」を連想する読者ならこれでもいいが、日本以外ではそのニュアンスが伝わらないだろう、ということだった。
それではインフィニティG35(だったと思うが)という海外における日産スカイラインの車名に翻訳されたところで、さて、各国でどのように理解されているのか、興味津津というところだ。株屋の新車のジャガーなら、それなりにイメージが湧く。だけど、トヨタクラウン・ロイヤルサルーンのタクシー、なんてのは、このまま翻訳しただけでは海外ではわからないだろう。名前が違っているだけでなく、もともとドメステッィクな車であるトヨタクラウンは海外には輸出さえされていないのだ。
ましてや、「群馬ナンバーの赤いダイハツミラ(スズキアルトだったかな)のバンパーはすこしへこんでいた」という類の表現がされていた場合、国内の読者ならそれなりにニュアンスが伝わるだろうが、はて海外ではどういうことになってしまうのだろうか。
それこそ1984年ごろ、Oshoはアメリカにおいて、若いジャーナリストから質問を受けた。「私は2台のトヨタカローラを所有しているが、これで十分で、それ以上車を持ちたいとは思わない。それなのにあなた(Osho)は30台のロールスロイスを持っているが、それをどのようにお使いになるつもりですか」というような質問であったはずである。
それに対して、Oshoは「TOYOTA! あれはオモチャじゃないか。私のロールスロイスはまもなく90台になる。これを365台まで増やして、一年間毎日一台づつ乗るんだよ」てな感じで、茶化していたが、はっきり言って、日本人としては、トヨタをオモチャといわれたのは、まぁ、ジョークはジョークとしても、なんだかなぁ、という気分ではあった。
しかし、これはごく最近知ったことだが、「TOYOTA」には「toy-auto」というニュアンスがあって、「オモチャ車」という語感がたしかに潜んでいるのである。それを知っていてOshoはそういうジョークを飛ばしたのだが、英語を聞き取れない私などは単に鼻白むだけであった。もちろん「鼻白む」なんて言葉も、うまく英語には翻訳されないだろうが。トヨタが高級車ブランド「レクサス」を立ち上げた理由の一つに、このような背景もあったかもしれない。
そんな話をしたら、うちの奥さんなどは、「1Q84」に、小道具としてたくさんの車が登場していることをほとんど覚えていない。「海辺のカフカ」にだって、マツダロードスターや、ファミリアのレンタカーやらが効果的に登場してくる。そのような小道具には、彼女はとんと関心がないのだ。わかってないなぁ。
しかるに、彼女は、青豆のファッションなどに関心があるらしい。あの場面ではこういう服装をしていて、こちらはこのブランドで、と、やたらと詳しい。私もあの小説を読んではいるが、スクッと立っている青豆のイメージはあるが、服装やブランドは、完全に飛ばして読み進めている。
ということは、もちろん、これらの小説の中に登場するシンボルたちの中で、わが夫婦が受け止めているものは多分、ほんの何%かで、そのほとんどは見過ごされている可能性がかなり大きいことになる。たとえば音楽であるとか、お店の名前とか、地名とか、あるいはワインの銘柄や、言葉の使い方など、読む人ごとに興味が湧くように、作者や翻訳者、編集者や出版社などが、いろいろ工夫を凝らしているのだろう、と想像する。
さて、こちらの本は「村上春樹を英語で読む」というサブタイトルどおり、ほとんど対訳的に、あちこちを指摘している。高校の4年後輩とかで、なおかつ英語を教えたりする大学の先生であったりすれば、なお村上英語が気になるということだろう。この本がなかなか傑作である。
村上春樹がその作品の中に潜ませているいろいろな仕掛けの一つにしか過ぎないと思われるが、筆者がそのことに気がついたのは、英語版のDance Dance Dance を読んだからである。「村上春樹」と「牧村拓」の二つの名前をいくら眺めても片方がもう一方のアナグラムとは気づかないだろう。しかし、英語版でMurakami Haruki と Makimura Hiraku を見ればそこになんらかのつながりを見出すのは困難ではないだろう。p6
この本は決して「誤訳」ばかりを指摘している本ではなくて、それぞれの「翻訳」のされかたに、微妙なニュアンスの違いをみているのである。まさに「クラウドソーシング」な一冊と言える。小説が苦手な私にとっては、小説を一冊読むだけでも大変なのに、それが村上作品であり、なおのこと英語だったりしたら、もうほとんどお手上げである。まさに三重苦だ。
しかるに、さらには「英語」には米語とイギリス英語の違いもあり、さらには30カ国以上に翻訳されているといわれる村上作品の全体を見ている人など、ひとりもいないだろう。村上本人も、そこまで目を通しているわけもなかろうし、目を通してもそれだけの言語を使い分けることはできないだろう。
さはさりながら、ひとつの作品がこれだけの多様性を持ちうるのだ、ということを確認するには、本当に興味深い一冊だと思える。数冊くらいなら英語のHaruki Murakamiをめくってみるのも面白いかもしれないが、この本が解説してくれているようには、とてもとても読むことは不可能だろう。
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