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2010/01/25

はじめてのチベット密教美術

はじめてのチベット密教美術
「はじめてのチベット密教美術」 
正木晃 2009/12 春秋社 単行本 126p
Vol.2 931★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

 「はじめて」つながりで、どさくさにまぎれてこの一冊を入れておこう。正木晃については、当ブログにおいて、だいぶ読み込んだ。「増補 チベット密教」「マンダラとは何か」「裸形のチベット」や、あるいはその巻末にある「さらに深くチベットの歴史を知るための読書案内」 などは、当ブログのナビゲーションとしては大いに役立ってくれた。現在は村上春樹おっかけが中心となっている当ブログではあるが、むしろ本質的な関心の中心はこちらにあると言ってもいい。

 ひととおりチベット密教を読み込んだあとの、中間的なまとめとしては、三つの抜け道があるだろう、ということだった。

1)チベット密教中興の祖、ツォンカパの中観思想を中心に、より観念的に、より抽象的にチベット密教を捉えなおすこと。

2)現チベット密教の中心、ダライ・ラマ14世を中心とした政治的、文化的、思想的な動きの中で、グローバルなスピリチュアリティを模索すること。

3)一旦、視点を変えて、津田真一「反密教学」的アプローチから、一地域の宗教性としてのチベット密教を超えて、ひとつの円環を終了させることによって、本来の地球人スピリットへの到達すること。

 これら三つの抜け道はそれぞれに重要不可欠ではあるが、なお、3)にまつわるチャクラサンヴァラにまつわる何事かに、一番関心を持つにいたった。

 さて、当ブログは現在、「1Q84」を発端として村上春樹ワールドを冒険中ではあるが、その中でも、「ねじまき鳥クロニクル」「スプートニクの恋人」の間にあいたエポックに、注目している。時系列的に言えば、この間には1995年という年代が挟まっている。

 この年には、阪神淡路大震災、麻原集団事件、ウィンドウ95、という大きなエポックメイキングなできごとがおきている。あえていうなら、ここには、村上春樹的なパラレルワールドへの入り口があったのではないか、と推測しているところである。

 そこで、あえて、ここでその存在の可能性を、パラレルワールド「1Q95」と名づけておきたい。「村上春樹『1Q84』をどう読むか」などのクラウドソーシングに注目してみると、多くの識者が、かの小説と麻原集団との関連を指摘している。その可能性はなくはないのだが、あえて、陽画的な意味ではあまり触れたくない事件なので、私は遠慮したい。

 しかしながら、もし、あの時代に、もうひとつの可能性があり、何かのショックで回線のつながり方に多少の多様性があったなら、2009年や2010年の私(たち)はもっと別な存在になっていたのではないか、という推測、このあたりを「1Q95」と名付けておきたいのである。

 村上春樹ワールドには、かなり陳腐化した性描写が、毎度毎度、カレーライスについてくる福神漬のように書き込まれているが、実はチベット密教美術にあるようなエクスタシーは、村上作品では到達しえないような高みにある。

 「母タントラ系のヤブユムたちは静かに座っていたりはしない。たったまま絡み合いながら、あるいは絡み合って狂喜乱舞しながら、悟りへの究極の道を表現している。どのホトケたちも、無上の快楽に酔いしれたような表情をしているのは、究極の快楽こそ、悟りへの最高のジャンピングボードになりうるという、これまた無上ヨーガタントラに特有の発想があるためだ。」p120

 今後、当ブログは、プロジェクトコードとして表しておけば、「クラウドソーシング」、「1Q95」、「チャクラサンヴァラ」、などがキーワードとなって切り開かれていくべき世界へと進んでいくことになる。

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