雨天炎天 アトス--神様のリアル・ワールド
「雨天炎天」 アトス--神様のリアル・ワールド
文・村上春樹/写真・村松映三1990/08 新潮社 2冊組/函入 p82
Vol.2 937★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
1988年9月の朝、我々はウラノポリから船に乗ってダフニに向かうことになった。連れは連れはカメラの松村君と、編集のO君である。p14
二冊組の一冊。村上春樹には小説やエッセイ、翻訳など、さまざまな表現形態があるが、ひっとすると、私はこのような旅行記のスタイルが一番好きかもしれない。もって廻った言い方をせず、平易でわかりやすい。白黒の写真が相まって、自分が本当に一緒にギリシャ正教の聖地の島を旅している気分になる。
このようにすっきり読めるのは、それこそ作家のなせる技なのだろうが、どういう技がどういうところで使われているのかさえ分からずに読んでいけるのだから、それこそが名人芸というべきであろう。この本は1988年。まだまだ村上前期の旅行記である。
この本に掲載されている写真はモノクロームである。それがなんともギリシャのどんよりとした重苦しさ(行ったことがないので、想像だが)を、より鮮明にしていると言える。これに比較すれば、先日読んだ「はじめてのチベット密教美術」などは、モノクロームの写真ばかりだったら、興ざめだろう。おなじ聖地でありながら、こうも違うと、ななかなか好対照だなぁ、と関心する。
僕は最初にも書いたように宗教的な関心というものが殆どない人間だし、それほど簡単に物事に感動しないどちらかというと懐疑的なタイプの人間なのだけれど、それでもアトスの道でであった野猿のような汚い坊さんに「心を入れ替えて正教に改宗してまたここに戻ってきなさい」と言われたときのことを奇妙にありありと覚えている。p82
88年の段階で「宗教的な関心というものが殆どない」と表現することは、ある意味、水かの身の保存のためには理にかなった表現ではあろう。もし万が一、村上春樹がチベットの聖地を旅することがあったら(もうそういう旅行記があるかもしれないが)、その時の旅行記もぜひ読んでみたいと思う。
聖地という場所があってがあって、作家という人間がいて、文章というメディアがあって、実際にこのような作品があった場合、読者としての自分も一緒に旅をしている気分になるのだが、実際に自分がその地を訪れることができれば、少なくとも、作家という人間と、文章というメディアを省くことはできる。より、ダイレクトにその地に触れることができるようになるわけだから、それに越したことはないが、しかし、作家の目、旅行記という(あるいは写真)メディアがあればこそ、気付いたり、わかったりすることも多くある。
さて、1995年における村上春樹の心境を考えれば、「宗教的な関心というものが殆どない」というセリフは、なんの注釈もなしに、あいまいに放っておいてよいことでもなさそうだ。ここからは別に何事かを掘り下げようとは思わないが、まずはこういう台詞をリアルワールドで村上本人が残している、ということだけはメモしておく必要を感じる。
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