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2010/01/11

カンガルー日和 村上春樹

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「カンガルー日和」
村上 春樹 (著), 佐々木 マキ (イラスト) 1983/01 平凡社 単行本: 233p
Vol.2 No905★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 村上春樹というひとは、こちらが想像している以上にさまざまな顔を持っているようでもあり、作品もいろいろな形で発表されている。これは初期的な短編を集めたもので、どこか実験的という雰囲気もある。かたちとしては81~83年に小さな雑誌に連載されたもので、ひとつひとつの作品につながりはないが、その試行錯誤が伝わってくるような一冊でもある。

 しかし、よくよく考えてみれば、最近読んだ「1Q84」にしても「海辺のカフカ」にしても、短編を数多く集めて組み合わせて長編にしている、と言えなくもなく、村上春樹を長編と短編とに分けてしまう必要はなさそうにも思う。

 というのも、結局は、村上作品をどうこう評価するというより、当ブログにおいては、村上作品を読んでいる自分の中で、なにが醸成されるか、というほうにポイントがあり、その視点からは、長編も短編も似たような効果があるようであるからだ。

 つまり、一枚の絵「A」を見たときに自分の中の情景「a」ができるとして、「B」に対する「b」、「C」に対する「c」のように、いくつかの自分なりの情景がストーリー性を持てば、それはそれで、私なりの小説の読み方となる。つまり作者が「A---B---C」というストーリーを展開しても、私の中で「a」、「b」、「c」という細切れの印象しか持っていなければ、単にそれは短編の寄せ集めでしかないし、著者が「A,」、「B」、「C」という短編しか書いていなくても、私の中では「a---b---c」というストーリー性ができあがってしまう可能性も十分あり得る。

 どのように書くかは作者に与えられた権利としての自由であり、どのように読むかは読者に与えられた権利としての自由である。自由ではあるが、作者として作品を読者に向けて発表するかぎりは、限りなく自らの意図を限りなく十分に伝える「義務」があり、読者は、作者からの投げかけを十分に受け止めようとすれば、作者の意図を限りなく十分に受け止めようとする「義務」があると言える。

 もっともここでいうところの義務は、きわめて象徴的なもので、印刷屋さんが誤字脱字を限りなくさけたり、落丁本を売りつけたりしないようにする「義務」、というようなものからは限りなく遠いものでしかない。ましてや小説というものが作者主導で発表される限り、読者は限りなく自由に作者に対しての感想を言えるものであろうと思う。

 当ブログでは、「村上春樹論」を展開する気は毛頭なく、村上春樹作品が読者としての自らの中から何を紡ぎだしてくれるか、というところに主なる関心がある。まるでタロット占いのように、偶然に引いたカードが「ご宣託」ということではなく、そのカードが私の中から何を引き出すのか、ということのほうが重要だ。

 二つの絵の間違い探しのように「右」と「左」の絵の中から、違っているところを10個探し出せ、というクイズのようなものの場合、その二つの絵の間の違いのなかから、ストーリーを作り出すことはほとんどできない。それは、違っているとさえ言えないほど、一つの情景に過ぎない。

 一枚目のカードに、川で洗濯している老婆が書いてあり、二枚目には元気な男の子が書いてあり、三枚目には赤鬼と青鬼がいて、四枚目には宝が満載されている荷車の絵があれば、そこからひとつの「桃太郎」のストーリーを作り出すことができる。

 ところが川で選択している老婆と、宝の満載された荷車が書いてあるカード二枚だけでは桃太郎のストーリーまでは行き着かない可能性がある。もちろん行き着く可能性もあり、また、まったく別個なストーリーができあがる可能性もある。

 たとえば、赤鬼と青鬼が一枚目にあり、二枚目におばあさんが川で洗濯をしていて、三枚目に財宝があり、四番目に元気な男の子のカードがでてきたとすると、そこにはそこのストーリーがあるだろう。

 情け深い赤鬼と青鬼が、貧しい老婆の誠実な生活ぶりに心うたれ、上流から財宝が満載された荷車を流し、それを拾った老婆は、人工授精で、元気な赤ん坊を生んだ、なんていうストーリーができあがってくる可能性は捨てることができない。

 村上春樹は、読者に対して「桃太郎」伝説を伝えようとはしていない。彼がやっていることは、各パーツパーツの情景を、ランダムに五月雨式に流しているだけである。そのパーツを並べれば、このようなストーリーを一例として作ることは可能ですよ、とは提示する。しかし、それはあくまでもサンプルであって、読者はそれを受け取って、自ら再構成する必要がある。

 つまり、作者はストーリー性を完璧に作り上げる義務は放棄しており、また放棄することを自らの作者としての「権利」だと主張する。読者は、それを受け取ったならば再構成することは権利であるが、もっと積極的に関わってそこからストーリー性を紡ぎ出す「義務」を押しつけられている、ということもできる。

 タロットカードなら14*4+22=78枚のカードがある。そこから何枚かのカードを取り出して、そこにストーリー性を確立するのは、そのカードの利用者であり、占い師の仕事でもある。カードそのものには義務はない。カードを利用する立場のものには、自由に解釈する権利もあり、また、義務というか、任務、あるいは能力が必要とされる。

 村上春樹世界は、褒めちぎるとすれば、タロットカード+百人一首+易経など、異種のさまざまなカードがまぜこぜにされているようなものだ、ということができる。この「占い」カードセットを自由に使いこなすことは、簡単ではない。簡単ではないが、使い手の能力によっては、有効に活用することができる。

 もし、ハルキワールドが「難解」でわからない、とすれば、それは読者として素直な感覚なのであり、「わかってもらえない」ことを作者としては、必ずしも「失敗」だとは思っていないだろう。ストーリー性を作り上げることに作者の意図の100%があるわけではない。むしろ、そこからは読者がやってくれ、とこちらに投げてよこしているのである。

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