劇的な精神分析入門 <3>
「劇的な精神分析入門」 <3>
北山修 2007/04 みすず書房 単行本 301p
そこに安西水丸というイラストレイターの書いた漫画で「普通の人」という作品がある。日本人の普通論を書くなら必読の書であろう。私はこの作品がよくできていると思っているのでもないが、実はその漫画集の巻末に載せられた村上春樹の解説が実に秀逸なので、引用しておきたい。さすがに小説家の文章である。
「しかし僕は思うのだけれど、このように相反的なるものの同時存在の中にこそ、私たちの偉大なる”普通性”があるのではないか。よく考えてみれば、私たちは実は適当にまとめられる借り物の自分と、借り物ではないけれどうまくまとめられない自分との奇妙な狭間に生きているのではあるまいか。私たちははっきりとどちらにつくこともできず、どちらにもつこうという決心もできないままに、”普通の人”としてこの世にずるずると生きているのではあるまいか。私たちの笑いを誘うのは、その相反性の中で不安定によたよたと揺れ動きながら、自分の目でそのよたよたのおかしさに捉えられないと冷厳な事実の持つ滑稽さではないのか」 p81
当ブログにおいて、この部分を引用し、また孫引きしているのは、別に村上のこの部分がとくに気にいった、ということではない。たまたまフロイト---ヘッセ、というラインを見つけたので、その後継キャラクターと勝手に認定した北山修---村上春樹、というライン上に、このような文章をみつけたから、忘れないようにするためである。
きっと、もっともっと読み込んでいけばこのようなラインは頻繁に見つかる可能性もあるし、また北山→村上、ラインばかりではなく、村上→北山ライン、も見つかるだろう。ただ、それは互いを相対化して、その位置関係を確かめるだけに必要なだけであって、ここにおける北山の「普通論」は、当ブログとしては、とても採用できない。
ウスペンスキーは人間の7つの範疇を紹介した上で、人間1号、人間2号、人間3号を説明したあとにこのように書く。
われわれが日常的な人生で出会うのは、この三つのタイプの人間に限られている。あなたもあなたの知っている人も、誰もが1号か2号か3号である。高次の範疇に属する人間もいるが、生まれたときから高次の範疇に属しているのではないあ。彼らはみな1号、2号、3号として生まれ、スクールを経てはじめて高次の範疇に到達することができる。ウスペンスキー「人間に可能な進化の心理学」p68
7つの範疇分けに異論がないでもないが、だが、北山の「普通論」を聞いていると、この人間1~3号あたりの範疇をなぞっているようで、どうも上昇気流をつかむことができない。いやもっと、ベーシックな部分で人間0号とでもいうべきところを右往左往しているかにさえ思ってしまうのである。
そういえば、Oshoタロットカードに「普通であること」という一枚があった。
11. 普通であること
The master, the gardener, and the guest
ただ普通であることが奇蹟です。何者かになろうと渇望しないことが奇蹟です。自然が自らのコースを取るに任せましょう。それを許すことです。
禅のマスター、盤珪(ばんけい)は、たまたま自分の庭で庭仕事をしていた。ひとりの求道者がやってきて盤珪にたずねた。「庭師、マスターはどこにいる?」
盤珪は笑って言った。「あの扉――あそこからなかに入るとマスターがいる」
そこで男は入っていって、なかで肘かけ椅子に坐っている盤珪、外で庭師だったその男に出会った。求道者は言った。「からかっているのか? その椅子から下りろ! 神聖を汚すことだぞ! お前はマスターに敬意を払っていないではないか!」
盤珪は椅子から下り、床に坐って言った。「もう椅子にマスターはいないだろう――私がマスターだからだ」
偉大なマスターが、それほどにも普通でありうるということが、その男にはむずかしすぎて分からなかった。彼は立ち去った……そして逃した。
ある日、盤珪が自分の弟子たちに静かに教えを説いていると、別の宗派から来た僧に話を遮られた。その宗派は奇蹟の力を信じていた。
その僧は、自分の宗教の創始者は筆を手に河岸に立ち、対岸にいる助手が手にしている紙きれに聖者の名前を書くことができると自慢した。そして彼はたずねた。「あなたはどのような奇蹟を行うことができるのか?」
盤珪は答えた。「ひとつだけだ。腹が減ったら食べ、喉が渇いたら飲む」
唯一の奇蹟、不可能な奇蹟は、ただ普通であることだ。マインドの望みは並外れたものになることだ。エゴは認められることを渇望する。あなたが自分の誰でもなさを受け容れたとき、あなたがほかの誰とも同じように普通でいられるとき、あなたがどんな証明も求めていないとき、あなたがあたかも自分は存在していないかのように存在しうるとき――それが奇蹟だ。力はけっしてスピリチュアルではない。奇蹟を行う人びとはどのような意味においてもスピリチュアルではない。宗教の名のもとに魔術を広めているだけだ。それは非常に危険だ。
あなたのマインドは言う。「このどこが奇蹟なのか? 腹が減ったら食べて、眠くなったら眠るとは」。だが、盤珪はほんとうのことを言った。あなたが空腹を感じると、マインドは言う。「いや、私は断食をしているのだ」。空腹を感じていないと、腹が満たされていると、マインドは言う。「食べつづけるのだ。この食べ物はとてもおいしい」。あなたのマインドが邪魔をする。 盤珪は言っている。「私は自然とともに流れる。私の存在がなにを感じようとも、私はそれをする。それを操っている断片的なマインドはない」
私もひとつだけ奇蹟を知っている。自然が自らのコースをとるに任せること、それを許すことだ。
そういえば不思議なのだが、北山は、盛んに日本人論や意識論をやるのだが、なぜか「禅」という文字がでてこない。京都に生まれ育ったはずの彼に「禅」は見えないはずはないのだが、「精神分析医」の彼は意識して、丁寧に「禅」を排除しているかのようだ。読み落としているかもしれないが、少なくとも、いまのところ、そこにウェイトは置いていない。
巻末に「付」として「詩人と空想すること」--芸術家に対するフロイトの羨望、嫉妬と創造性、という一文がついている。フロイトの芸術論について書かれているが、とても興味深い。時には笑える。
フロイトの羨望
a、作家になりたかったフロイト
第一に、フロイトは芸術家になりたかった。「分析技法前史について」(1920)という匿名論文で明かしていることだが、実は自由連想法ちう思いつくまま思い浮かべて報告するという精神分析の方法は、彼が14歳のときに読んでいる「三日間で独創的な作家になる法」(ルードヴィッヒ・ベルネ)という本から受け継がれたものである。p263
先の高橋(義孝)によれば、フロイトにとって科学というものは芸術と比べて同じ材料を「もっと楽しみ少なく扱う」という意味だと解説している。つまり、彼は科学者となって、詩人との違いを明言してこれとの訣別を表明しているのである。だからこの「詩人と空想すること」の中の「詩的素材選択の諸条件や、詩的創造技術の本質をどれほどよく知ったところで、それによって我々自身が詩人になりっこはないということを承知の上でも(・・・・・)」という文章は私の目をひくが、どれほど芸術家についての洞察を得たところで「詩人になりっこはない」というところに、詩人になりたかったフロイトのそういう断念の思いがある。p269
この本、場合によってはもっと引っ張ろうかなと思っていたが、意外にというべきか、予想通りというべきか、あまり当ブログとしては長逗留するような本ではないようである。現代におけるフロイト、日本におけるフロイト、身近に名前の知られた北山修という人の「フロイト 精神分析」が、どの程度のものであるのかが、漠然とわかれば、この書を開いた目的は達成されたことになる。
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