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2010/01/31

意味がなければスイングはない

意味がなければスイングはない
「意味がなければスイングはない」 
村上春樹 2005/11 文藝春秋  単行本 289p
Vol.2 949★★★☆☆ ★★★☆☆ ★★★☆☆

 季刊音楽雑誌「ステレオサウンド」に2003/春~2005/夏まで連載された、毎回5~60枚程度の長い音楽評論がベースとなって、2005年に加筆訂正されて出版された本。時期的には「海辺のカフカ」のあと、「アフターダーク」とのほぼ同時に書きすすめられた音楽論であり、長編小説を書くためのバランスをとるために書かれた一冊と言ってもいいだろう。

 小説の展開ではトンデモハプンなストーリー展開が多い村上作品だが、このような評論ものになると、ごくごく当たり前の論理性の持ち主であることがわかる。イノセントアートの安西水丸とのカップリングである村上朝日堂シリーズともまた違った、もうひとつの村上春樹の側面と言える。

 フォルカー ミヒェルスの「ヘルマン・ヘッセと音楽」とこの本を比較してみたりするのも面白いかもしれない。あるいはジェイ・ルービンの「ハルキ・ムラカミと言葉の音楽」も、決して音楽論ではないが、村上作品の中に潜む音楽性について、つよく指摘している。

 さて、小説にも音楽にも、ほとんどなんの造作もない当ブログとしては、ただただページをパラパラとめくっているだけだが、後半になって、ようやく「スガシカオ」で手が停まった。

 「ポスト・オウム的」というと、いささか話がアブナくなってしまうこれど、そこにあるものはたしかに、1995年以降でなければうまく通じにくい、漠とした「カタストロフ憧憬」ではないか、という気がしないでもない。p211「スガシカオの柔らかなカオス」

 あるいは、もっとも最後尾に登場するウディー・ガスリーなども、気になってくる。

 ウディー・ガスリーという音楽家は見当はずれなドン・キホーテであったのか、それとも邪悪な巨龍に敢然と挑んだ高潔の騎士であったのか?p249「国民詩人としてのウディー・ガスリー」

 なんとか当ブログとの関連のありそうなところを見つけようとめくるスピードを落とす。

 要するに、音楽の目的が違うのである。ガスリーが、同じような簡易な言葉を用いて詩を書いた国民詩人ウォルト・ホイットマンの継承者と言われるのもそのためである。p256「国民詩人としてのウディー・ガスリー」

 このあたりは、かならずしも村上春樹の独自の音楽論ということではないし、本来であれば、スガシカオやウディー・ガスリーはもともとこのシリーズにはでてこない可能性が高かったのではないだろうか。それでも、やっぱりサービス精神旺盛な村上春樹は、私のような小説にも音楽にも疎い一般読者にもオマケとして加えてくれているのだろう。

 「ブルース・スプリングスティーンと彼のアメリカ」p105、とか、「シューベルト『ピアノ・ソナタ第17番ニ長調』D850 ソフトな混沌の今日性」p55などというあたりも、本当はゆっくり読んでみたい。 

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