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2010/01/09

海辺のカフカ

海辺のカフカ(上) 海辺のカフカ(下)
「海辺のカフカ」(上) (下) 
村上春樹 2002/09新潮社 単行本 397p 429p
Vol.2 No902~3★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

 小説についてのメモをどのように残しておいたらいいのか、いまだによく感覚がつかめないが、とにかく、全部読んでからアップすることにした。それでも、感想を残すのはなかなか難しい。自分があまり小説を読まない、ということの上に、読んだ小説が村上春樹だったりすると、なおのこと、難しい。

 それでも、ほとぼりが残っているうちに、ランダムにメモを散漫なまま残しておく。

・この小説を読み出して、すぐに緑色のマツダロードスターがでてきて、そういえば、先日、ロードスターのプラモデル2台をネットで落札したまま、ほったらかしておいたことを思い出した。読みかけては組立て、組み立てては読み、しながら、小説を読み進めた。

・「1Q84」では、主人公がおなじ1954年生まれだったし、1984年という年にはそれなりに感情移入できたので、わりとイメージしやすかった。こちらの小説では、どうしても15~6才の時の自分を思い出しながら、読んでいた。

・16才の時、私は(我が家では、という意味だが)二匹の犬を飼っていて、それぞれの名前がナカムラとスズキだった(私が命名したのだ)。そんなどうでもいいことを、この「海辺のカフカ」で思い出した。どちらも雑種で、かしこくはなかったが、かわいがっていたので、結構、私にはなついていた。猫の名前は、我が家では歴代サンケと決まっていた。ミケ(三毛)ではなくサンケである。

Photo

・中学の時ではなかったけど、16才の時に、秋休みを使って、5日間の自転車旅行にでたことを思い出した。最初に泊めてもらったところは、婦人が一人で守っている山のなかのお寺で、ご飯も食べさせてもらったし、風呂にも入れてもらった。でも泊めてもらったのは、離れにあった小さなお堂で、明かりがいっさいなかった。新月だったのだろうか、月もでておらず、シンとした夜だったが、満天の星が本当に美しかった。柿の木の下から見上げた空はまさにプラネタリウムのようだった。

・あれも16才の時だと思うが、思いっきり遅刻して、午後から学校に向かった夏の日があった。もう昼過ぎの地方駅には、駅員以外の姿はなく、所在なげに扇風機が首をまわしていた。あの時、ふと思ったことは、もし将来、自分が小説を書くのなら、かならずこのシーンを書くだろう、ということだった。小説は書いたことがないので、そのことを久しぶりに思い出したのだが、もう機会がないかも知れないので、まずはここにメモしておく。あの時、あそこの駅の、無人の待合い室には、どこかへの「入り口」が存在したのだろう。

・村上春樹という人の小説の作り方がすこしづつ分かってきた。わかってきたというより、「1Q84」との共通項に気づいた、というべきか。他の登場人物たちに感情移入しようとしたが、結局は主人公以外にはできなかった。というより、これは一人の人物の中の、それぞれの要素に過ぎないのだと思った。

・同時進行的ないくつかのストーリーが次第にひとつの物語につながっていくという手法は、他の作家たちも使っている手法なのだろうか。こういうものだと思えば、今後は、こういうものだとして、読み進めるにも、すこし慣れてきそうな感じがする。

・性的な表現は、結局、ストーリーには欠かせない要素なのではあろうが、どうもエンターテイメント的で、とってつけたような気がしないでもない。好きか嫌いでいえば、あのようなシーンはなくてもいいのではないか、と思う。だが、あればあったで、インパクトがあることはよくわかる。やっぱり、必要なのだろうな。

・地名や小道具はいかにもありふれていたりして、それがリアリティを盛り上げるのだが、実は、日本が舞台でありながら、すでに日本ではない。この辺がコスモポリタン的で、多くの国で翻訳され、多くの読者に支持される要因になっているのだろう。

・面白いか面白くないか、と言われれば、圧倒的に面白いと思う。このような世界があることを知らないで時間が過ぎていくよりかは、このような世界と感覚があることを知っておいたほうが、絶対、人生は深みが増すと思う。(今更だが)

・この小説では、そう強くもなかったが、1970前後の「敗北感」というものが、世界共通で、その同時代体験が国際的にハルキワールドをささえているのかな、と思っていたが、実は、各国におけるその「敗北感」のようなものは、実は、1970前後と限ったものではないことがわかってきた。たとえば中国の天安門事件とか、韓国のデジタル・デモクラシー以後などの社会状況が、時代を超えて、重なっているようなのだ。

・この小説にはいくつものストーリーが重なっており、これを分割していくつもの小品をつくることもできるのだろうが、このように一つしてしまうことによって、かなり厚みのあるものになることが分かった。ほかの村上作品を読んでみないとわからないけれど、結局は、他のひとつひとつの小説を含めて全部つながってしまう、ってこともあるのだろうか、と興味津々となってきた。

・その他、読み進めていて、そういえば、こういうこともあった、ああいうこともあったと、まったく忘れていたいろいろな体験が思いだされてきた。あちこちにバラバラに忘れてきてしまった情景が、この小説を読んで、ひとつのプラットフォームに並んだように思う。しかしながら、それらを全部つなげて、ひとつのストーリーには仕上げることはできない。ここはさすがに、プロの小説家であるからして、このようなストーリーができるんだなぁ、とあらためて感心した。(またまた今更だが)

・その他、いろいろある。社会的事件を巧みに取り込んでいるとか、小道具の採用が細かく計算されていたりしているとか、登場人物が縦横、各層をシンボル化しており、読む人にとっては、どこかに感情移入できるように、チャンネルを多くしているのだろうと思う。そして、集合的な無意識層をかなりつよくプロボークして、それまで沈潜しているものを揺さぶって、どんどん浮き上がらせているのだろう、と思った。

・だんだん忘れてしまう内容もあるだろうし、自分の中で、もうすこし後になって整理がついてくることもあるのだろう。村上春樹がこれだけ話題になっていることの一端が、すこしだけわかった気がする。

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