国境の南、太陽の西
「国境の南、太陽の西」
村上春樹 1992/10 講談社 単行本 294p
Vol.2 919★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
私は何にもわかってないな、と思う。少なくとも、すでに全部村上春樹を読んでしまっている自分がいるとして、そして、まだ全部読みきてはいない自分がもう一人いて、当ブログで読んできたような順序で村上春樹の小説を読んでいるとしたら、もう読んでしまった自分は、まだ読んでいない自分に対して、「何もわかってないな」というだろう。
「国境の南、太陽の西」。最初は羊男でもでてきて、また冒険にでもでるのかと思っていた。どこかサスペンス風のタイトルだ。だが、いつも思うのだが、なんだかかなり頓珍漢なタイトルだなぁ、と冷やかしぎみに読み始めるのだが、読み終わってみれば、この小説には、このタイトルが一番似合っている、と思うことになる。いや、このタイトルしかなかったのだ、とさえ思える。
どちらかと言えば、これは村上春樹のリアリズムに属する小説なのだろう。現実から逸脱しないわけではないが、逸脱していることさえ、気がつかなくなる。いや、それでいいのだ。現実の連続の果てに、逸脱がある。そして、いつのまにか、逸脱が現実となり、現実は、いつのまにか逸脱になってしまっている。
僕はそのときの彼女の瞳の奥にみたもののことをはっきりと覚えていた。その瞳の奥にあったものは、地底の氷河のように硬く凍りついた暗黒の空間だったのだ。そこにはあらゆる響きを吸い込み、二度と浮かびあがらせるこのない深い沈黙があった。沈黙の他には何もなかった。凍りついた空気はどのゆな種類の物音をも響かせることはなかった。p251
この小説が発表されたのは1992年。バブル経済は崩壊したとはいえ、幾分まだそのほとぼりは冷めきらないでいた。そして、それから20年もつづく失われた時代などというものも、本当の意味では誰も予測できないでいた。
村上は40代半ば、当時は、マスコミや日本の雑踏を避けるように、外国にわたり、アメリカの東海岸あたりでこの小説を書いたのだろう。村上作品に登場する人物たちは、あまり貧しい人たちではない。普通、あるいは普通以上だ。飢えているわけではなく、上昇志向をつよくもっているわけではない。物質世界を十分享受している。堪能しているといってもいい。しかし、それでもなお、いやそれであるからこそ、感じられる魂の飢え、というべきものを、うまく演じている。
青少年の恋愛小説みたいなものかな、と思いつつ、次第次第にひきこまれていった。ヘセが青春の文学のようにに言われたりしながら、次第に中年や老年について書きすすめたように、村上春樹はいつか老年について、深く語るだろうか。1949年生まれの彼もすでに61歳となっている。愛と死を通して、そしてそれを焼き切ったところで、どのように彼に老いは訪れるのだろうか。
彼はあらゆるジャンルの手法を使いながら、その世界を広げているように思う。毎回意表を突かれ、とまどいつつ、ついついついて行ってしまう。お見事だ。その見事な手で、ヘッセが「ガラス玉遊戯」を書いたように、さらなるハルキワールドのなかの「老い」を書いてもらいたい。それを読んでみたい、と思った。
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