劇的な精神分析入門 <2>
「劇的な精神分析入門」 <2>
北山修 2007/04 みすず書房 単行本 301p
ログ・ナビをたどっていくと、思わぬページに出会うことがある。たとえば今日はこんな頁に出会った。「Osho Vlog」。誰がどんなカタチで作成したのか、よく調べもしないが、へぇ~と思う。なるほど、こういうやり方もあるなぁ、と思う。私もOshoの門下であってみれば、おのずと当ブログの行く末はほのかに見えている。なにも、ここでフロイトやヘッセやグルジェフにかかずらっている場合ではなく、直線的に結論に向かえばいいのではないか。
そうも思うが、そう思わない部分も同じくらいある。ひとつのアンチテーゼにはなるが、当ブログはあのようなカタチを自らの次なるステップだとは思わない。なぜかといえば、それなりに理由はある。まずは、個体としての自分にこだわりをもっていること。「私は誰か」という問いかけに、仮にすでに答えはでているとしても、時間軸と空間軸の交差点にいる「私」にはこだわりを持っている。
そして、どのように完成度が高かろうと、マスター、あるいはそれに類する存在の表現を借りて、自らの表現が完了したとは思わない。自らがなにかに溶けていくことになんの異議もないが、すくなくとも溶けていくことを、感触として知っておく必要がある。直線的に、ほかの表現を借りて、終わり、とすることはできない。
さてまどろっこしい思いをしながらも、「フロイト 精神分析」というキーワードを追いかけて、その現代的日本における指標としてのナビゲーターを、北山修という存在にお願いした。とりあえずその表現物をいくつか手にして、今、この「劇的な精神分析入門」を手にしてみると、これは現在の当ブログの目的になかなか即した一冊と言えると思える。
私たちの患者たちは、普通に生きろ、普通にやれと言われて困っている。私たちは普通とは自明のことのように言い、心理学の質問紙調査では「普通」とすぐに記入し、成績も「普通」だと簡単に言うが、それは普通が分かっているということだろう。しかし、そもそも普通って何なのだろう。p69
この本における北山修は精神科医であり、精神分析家としての、大きな病院の(あるいは個人クリニックの)心療内科の先生である。「治療者」として「患者」に向かいあう。もちろん職業として確立された世界のことであり、その「効果」も実証されていると推測していいのだろう。もっとも、そのことは著者自身がなんども言っているように、「治る」とはどういうことなのかを明確にしなくてはならないが・・・。
当ブログの現在の文脈では、心理学をかならずしもフロイトに始まる科学とは規定していない。むしろ、心理学は古代からつづくもっとも古い科学の一つであり、100年ほど前にフロイトが立ち上げた「精神分析」はその中の一つの潮流である、と捉えている。そして、ここでの北山修の言葉にもあるような「患者」と向き合うことは、つまり、病者の心理学である、と見ている。
当ブログの枠組みでは、フロイトは「病者たちの心理学」をより明瞭にしただけであって、「健康者たちの心理学」にまでさえ達していないと見ている。だから、さらにはその次なる「ブッタ達の心理学」など、まったく埒外として、研究の対象にすらなっていない、と見ている。
先日読んだ小説「1Q84」において、女性スポーツインストラクターにして特殊刺客である青豆は、資産家である老婦人のボディガードである元自衛隊特殊部隊の猛者タマルに、自決用の拳銃を入手できないか、相談する。
「念のため言っておくが、俺はこれまで刑事責任を問われたことは一度もない」とタマルは言った。「言い換えれば、前科はないということだよ。司法の側に見落としのようなことがいくつあったかもしれない。そこまではあえて否定しない。しかし記録の上から言えば、俺はまったく健全な市民だ。清廉潔白、汚点ひとつない。
ゲイではあるけれど、それは法律に反していない。税金は言われたとおりに納めているし、選挙だって投票もする。俺が投票する候補者が当選したためしはないけれどな。駐車違反の罰金だって期限以内に全部払った。スピード違反で捕まったことはこの十年間一度もない。
国民健康保険にも入っている。NHKの受信料も銀行振り込みで払っているし、アメリカン・エクスプレスとマスターカードを持っている。そんなことをするつもりは今のところないが、もし望むなら三十年の住宅ローンも組むことだってできるはずだ。そして自分がそのような立場にあることを、俺としては常々喜ばしく思っている。
あんたはそういう社会の礎石と言ってもおかしくない人物に向かって、拳銃の手配を頼んでいるんだ。それはわかっているのか?」 村上春樹「1Q84」Book2 p28
「普通」とはなにか。精神的においても、社会的においても、何が普通であるか、という定義付けは難しい。診療内科を訪れるだろう「病者」に対して、どのような「治療」がほどこされ、どのように「普通」な生活へ戻っていくのか。じつはこれは大変難しい問題である。
ウスペンスキーは「人間に可能な進化の心理学」において、人間のタイプを7種類に分けて番号づけている。ここではいきなり順番をはしょって人間7号を抜き書きする。
人間7号は、人間が獲得しうるすべてを達成した人である。彼は一定不変の「私」と自由意志をもっている。彼のもつすべての意識状態を制御でき、獲得したものは何ひとつ失わない。太陽系の範囲内では不死であるとも言われている。ウスペンスキー「人間に可能な進化の心理学」p68「講座2 人間の4つのセンターと七つの範疇」
一時グルジェフの影響下にあったウスペンスキーだが、独自の体系を持っており、かならずしもグルジェフとまったくおなじ体系を使っているわけではないが、その類似性はかなり高いものと思われる。しかしながら、ここで問題なのは、どうやらこの人間7号というステージまでグルジェフは到達したと一般的には思われているが、ウスペンスキーはそこまでは達していなかった、と思われることである。つまり、ここでのウスペンスキーの表現、とくに「人間7号」については、想像で書かれているにすぎない、ということになる。
北山修がこの本で書いている「フロイト 精神分析」は、「病者の心理学」である。「人間7号」に到達するための道筋が書いてあるわけではない。むしろ、まったくそのような領域があることまで、想いが巡らされているわけでもない。また反面、一般的にウスペンスキーがここで語っている「人間7号」についての考察が、現代でいう「科学」になりうるのかどうか、まだ十分に検討されているとは言い難い。
しかし、ここでウスペンスキーが表現した「人間が獲得しうるすべてを達成し、一定不変の「私」と自由意志をもち、すべての意識状態を制御でき、獲得したものは何ひとつ失わず、太陽系の範囲内では不死である」という存在が提起されていることをまずは把握しておく必要がある。アメリカン・エクスプレスとマスターカードを持っていて、30年ローンを組むことができることを「普通」というわけでもなく、もちろん、それは「ブッダ」の定義でもない。
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