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2010/01/17

ダンス・ダンス・ダンス

ダンス・ダンス・ダンス(上)  ダンス・ダンス・ダンス(下)
「ダンス・ダンス・ダンス(上)」
「(下)」
村上春樹  1988/10 講談社  単行本  344p  339p
Vol.2 915~6★★★★☆ ★★★★★ ★★★★☆

 「わかるよ」と僕は言った。「それでは僕はいったいどうすればいいんだろう?」
 「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽のなっている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい? 踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。・・」
p151

 うむ、だから、ダンス、ダンス、ダンス、なのか。

 最近、パソコンがひどい目にあったことは、前にちょっと書いたけど、けっきょく、あのパソコンは修理せずに戻ってくることになり、私は、以前使っていて一時お払い箱にしていたノートパソコンにOSから再インストールして使うことにした。なんせ、娘のボーイフレンドが大学に入学した当時に使っていたという代物なので、あちこち痛みが激しいのだが、使って使えないことはない。ないよりましだ。

 考えてみれば、インターネットに対して、最初私は批判的だった。パソコンそのものは、80年代初頭から関心を持っていて、なんとポケコン4級(汗)という資格まで持っているが、インターネットが始まったあたりでは、それが米軍主導で開発された技術である、ということもあって、一元的に情報を管理する悪魔の技術だ、みたいなことを周りの数人に話したことさえあった。

 しかし、いまじゃぁ、ネットがなければ朝も来なければ、夜もない、というような生活をしている。プライベートもパブリックも、すべてはネットありきの生活だ。だからこそ、2年ほど前には、身分不相応な高機能なノートパソコンを新調したのだった。すでにポンコツを入れれば、二桁のパソコンの所有者ではあるが、やはり、最先端の機能がついているマシンは気持ちがよかった。

 しかし、それが一瞬にして失われてしまった。(つまり、モーニングカップ一杯分のインスタント・コーヒーを、たっぷりとノートパソコンのキーボード全体とディスプレイに御馳走しただけのことだが)。通常の方法では回復不能で、法外な修理費がかかるというので、修理は断念した。(泣)

 茫然としたまま数日、パソコンなしの生活を試みたが、やはりだめだった。正月が過ぎて仕事が始まるとすぐに必要になった。あれやこれやがどんどんたまっていく。仕方がないので、あの型落ちパソコンを物置からひっっぱってきて使うことになった。

 もっとも、こういう状況が起こり得ることは元々わかっていたので、必要なバックアップはとってあるし、常に情報ラインは2ウェイを確保している。つまり、2ウェイのバックアップがあるわけだから、なんとか4つのラインが常備稼働可能な状態にしてある。だから、致命的な障害はさけることができる。しかし、それにしても、一番頼みにしていた一番機がやれた(自分でやったのだが)のには参った。

 今回この事故に遭遇して思ったことは、すでに私のパソコンライフは、かなりの部分が「クラウド・コンピューティング」化されている、ということだった。つまり、パソコン一台がやられても、データやラインはかなり外部に確保されている、ということだった。手元にあるパソコンは、たしかに昔に比べてば高機能にはなっているが、実は、実際に使っている機能は、向こう(つまり「雲」)側に行ってしまっている、ということだ。

 要するに、手元には、キーボードとディスプレイがあれば、あとはほとんど問題はない、ということだ。ラインもつながっている。プリンターなんかも、実質数千円でいつでも交換可能だ。メールもソフトもデータも、全部「向こう」化されている。多少の損害はあったが、それは、「しまったぁ」程度で終わるようなことだった。

 車のことを考えた。昨年は、カローラやフィットを抑えて、トヨタプリウスが売上第一位になり、20万台売ったという。10年目10万キロを迎えた我が家のリッターカーも、買い替え時期に来ている。一時はプリウスやインサイトがわが車庫にあるイメージを、何度もイメージ・トレーニングしてみた。しかし、それは現実化しなかった。

 現在乗っている車は、必ずしもポンコツではないが、新車にしたらきっと気持ちがいいに違いない。運転は今よりしにくくなるだろうが(後ろの見通しが悪い)、近所に対してすこしは見栄を張れるかもしれない。いやプリウスやインサイトでは見栄は張れないだろうが、まぁ、自分なりにいい気分にはなるだろう。新車の香りもある。可能なら、ロードスターのツーシーターにしたっていい。奥さんは大反対だが、そんなこと運転する私に主導権があるはずだ。ロードスターのプラモデルなんか、白とオレンジ、二台も買ってみた。一台は作り終えて、オレンジのほうはこれから作る。

 でも思う。所詮は車だ。あるかないか、の違いくらいしかない。あれば車なんてほとんどなんにも変らない。四つのタイヤがあり、一個のハンドルがある。あとはせいぜい2~3人が乗るスペースがあれば、それで済む。なにも、あれやこれやの高機能車まで考える必要はないのではないか。

 こうして、パソコンと車、というものがいかに自分の生活のなかの必需品化しているかを痛感しながら、自分の生活にとって「小説」とはなにか、を考えていた。私は、当ブログでもなんども公言しているように、小説は苦手で、そのとおり、ほとんど積極的には読んでいない。読む気さえ起きない。めんどうくさい。そう思ってきた。

 しかし、振り返ってみると、結構、小説は読んでいたのである。それは必要に迫られてという側面は多くある。だが、まったく読まなかったわけでもなく、読めなかったわけでもなかったのだ。まぁ、そういうことに気がついた。ここでなにを言いたいか、というと、つまり、パソコンや車も、最先端のものはいらないが、ないとあるでは大違い。だから、自分の生活の中で、「小説」があるかないか、では大違いである、ということである。

 まったく非「小説」、否「小説」、無「小説」ということは、あり得ない。すくなくとも、自分の生活ではそういうことなのだ。なにも、最近の流行作家を次々と追っかける必要もなければ、どっぷりその世界に浸かることも必要ない。しかし、多少は、そして必要最小限度の「小説」は自分の生活の中に取り入れる必要がある、ということを、今回、村上春樹おっかけをし始めて、わかった、というお話であった。

 ジャスト・マイ・サイズ、という感じがする。生活必需品、というか、あればあったで便利なもの。なければない、で困るもの。それが、現在の私にとっての村上春樹という作家のイメージである。つまり、実際の私の感覚、というより、村上春樹という作家は、そのように受け止められているのではないか、という直感だ。

 倫理観だとか、エンターテイメント性だとか、日常性とか非日常性とか、前衛性とか、保守性だとか、ちょうどいい具合にまとまっている。ちょうどお手頃だ。小説はしょせん小説だ。小説とはこんなもんだ、というちょうど、ジャスト・マイ・サイズな小説。それを村上春樹は提供しつづけているのではないか。

 なにも目くじら立てて、「どう読むか」だの、「どう読み解くか」だのと大騒ぎするほどのことでもない。かと言って「読まずに済ます」のも、ちょっともったいないだろう。楽しめばいいんだ。楽しむ、ったって、面白くなければ、楽しめない。「NHKのど自慢」程度の唄で楽しむことはできないだろうが、毎回コンサートホールに出向くほどのことでもない。ジャスト・マイ・サイズほどには、面白くなくてはならない。

 そういった意味では、自分にフィットした「小説」をきちんと見定めておく必要がある。パソコンや車と同じように、あちこち目移りはするが、結局は、最低必需品のラインをクリアしながら、なお、維持していくのに面倒ではないジャスト・マイ・サイズ、そのような「小説」をいくつか見つけておく必要がある。「ダンス・ダンス・ダンス」を読んでいて、そんな感じがした。とりあえず、この作家はジャスト・マイ・サイズだ。そう思わさせるところがこの作家の魅力であろうし、いずれ世界的なポピラリティを獲得することになった源泉なのだろう。

 この小説は1987年12月17日に書き始められ、1988年の3月24日に書き上げられた。僕にとっては6冊目の長編小説にあたる。主人公の「僕」は「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」の「僕」原則的には同一人物である。p339「あとがき」

 「風の歌を聴け」「羊をめぐる冒険」はこれから読むところ。すでに読んだ「1973年のピンボール」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「ノルウェイの森」を加えれば、ようやく、ここで、時間進行軸としての村上春樹に、ようやく追いつくことができるようになる。

 ダンス・ダンス・ダンス・・・

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