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2010/01/05

現代フロイト読本<3>

<2>よりつづく

現代フロイト読本(1)
「現代フロイト読本1」 <1>
西園昌久 監修  北山修 編集代表 2008/05 みすず書房 単行本 395p

 フロイトは1881年に医学部を卒業し、神経学の研究者を志したが、さまざまな事情で1886年に開業医となった。彼は今でいう神経内科の医者だったわけであるが、開業医として多くのヒステリー患者と出会うことになった。身体に基礎づけることのできない神経系機能の脱失、意識の変容、乖離性の健忘などを示す女性患者たちを治療しようとするとき、身体的な治療はほとんど役に立たなかった。やがて彼は、年長の同僚でしばしば彼に経済的援助も与えたヨゼフ・ブロイエルの仕事に刺激を受けて、催眠や暗示を用いるようになっていった。p15藤山直樹「フロイトの著作について」

 フロイトの場合、開業医として治療にあたり、まずは目の前に「多くの患者」ありきのスタートだったわけだから、彼の精神分析を「病者の心理学」とばかり強調するのも、フェアではない。多くの症例を体系づけ、自らの発想を実証づける中で、共同研究者も増え、またリーダー的立場に置かれた時、その時代においての記録とネットワークを残そうとする努力をしたし、彼自身の持っている才能をフルに活用したと思われる。

 それにしても、この本のタイトル、「現代フロイト読本」のなかの、「現代」、「フロイト」、「読本」、とは何であろうか。

 もはや現代は、フロイトの精神分析に熱狂的に飛びついて、フロイトを真に受けて、そして信じて、裏切られていく、というような「フロイト・ブーム」の時代ではない。精神分析に関するそういう幻滅体験はすでにフロイト自身にもあったのである。(中略)今や、フロイト著作について「役に立つ」という言説は頭から疑われていると思う。すでに多方面でフロイト自身の病理、神経症、偏り、というものが論じられている。それでも、精神分析は胸を貸す形でその批判を受け止めることができていて、だからこそ、今世紀になって後から読まれるフロイト読者は、実用性や功利主義に振り回されないでいられるのだ。今では、甘い夢は抱かずに、冷静に、そして落ち着いてその知恵から学びながら、自分の居場所で読めると思うのだ。p368「私有化された『フロイトを読む』」北山修

 責任編集者である北山のここの文章を借りるかぎり、「現代」とは今世紀、つまり2001年以降のことであろうし、「フロイト」とは「疑われ」、批判的に「論じられ」、それらに「胸を貸し」ながら受け止めている存在、ということになる。また「読本」とは、その「フロイト 精神分析」に対して、「甘い夢は抱かずに、冷静に、そして落ち着いて、自分の居場所で読む」ことを助けるための補助教材、という意味なのであろう。

 当ブログは今後、個人的メモ「OSHOのお薦め本ベスト10(私家版)」などをたよりに、「ブッタ達の心理学」なるものの領域に入ろうと試みている。正直言って、フロイトの「胸を借りる」というつもりはないのだが、21世紀においても「心理学」といえば、一度はフロイトについてさわっておかなくてはならないので、そのアウトラインくらいは把握しておかなくてはならない。ユングやライヒ、アサジョーリやアドラー、あるいはアラン・ワッツやケン・ウィルバーといった広範囲な後継時代の活躍者たちを俯瞰する意味でも、フロイトの位置関係は、きちんと座標軸に収めておく必要がある。

 しかし、当ブログへのアクセスログから導き出した「フロイト 精神分析」という検索ワードからのナビゲーションは、そろそろ、ここの北山の括りの言葉で、その返答としてもいいのではないだろうか。

 フロイトに対しては、「実用性や即効性」を期待せず、「甘い夢」を持たず、「冷静」に、「自分」の場所で読むこと。それにつきるということだ。以前に、冷めたピザ、と揶揄しておいたが、まぁ当たらずとも遠からず。それでもなお、これだけの日本人研究者たちが、その冷めたピザを温めなおして、「しょうゆ味」で提供し直すところに、なおこの老舗レストランの「意地」を感じる。

<4>につづく

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