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2010/01/05

1Q84 <4>

<3>よりつづく

【重版予約】 1Q84(イチ・キュウ・ハチ・ヨン)(book 1(4月ー6月))  1Q84(book 2(7月ー9月))
「1Q84」book 1(4月-6月) book 2(7月-9月)<4>
村上春樹 2009/05月 新潮社 単行本 554p

 正月休みを挟んでいたとは言え、すでに数週間の我が家滞在を終了しようとしているこの二冊の本から、要所要所に張り付けた付箋をはずしながら、本当は延長したいのにな、と思う。でも、自分の後ろにすでに並んでいる1000にも及ぶブッキングを眺めてしまえば、そのようなわがままは許されない。

 もっとも、再び予約し直すということはないだろう。さらに半年を待つほど気は長くない。ただ、いちど、半年予約待ち、という体験をして見たかった、というところにポイントがあった。本当に読みたければ、奥さんの言うように「買って」読めばいいのである。書店の店頭には未だに平積みで山積みされている。

 ただ、当ブログは、ネット上の公開ブログであり、また図書館から借りてきた本を読んでメモを残しておく読書ブログである。ほとんどがモノローグではあるが、できるだけ読み手との共有感覚を増やしたいので、可能な限り図書館から借りだしてきて読むことを第一議としている。(こづかいが少ないのも、大きな理由ではあるがw)

 さて、私は「1Q84」を買って再読するだろうか。それは大いにあり得るが、今回は私なりにゆっくり「精読」したので、すぐには買わないだろう。その前に、他の村上作品を何冊か読んでみたい。他のものならこんなに混んではいない。リクエストすればほぼ数日で手に入る。だから、それらに一度目を通してからまたここに戻ってくることのほうが妥当性がある。

 以下、ランダムではあるが、この小説を読んで感じたことをメモしておく。

1)、天吾、青豆、男女二人の重要登場人物とも、1954年生まれである。二人は小学生時代、10歳の時に同級生だった。奇しくもというべきか、読み手である私も1954年生まれである。そのような意味では、男性登場人物・天吾にはシンパシーを感じながら、読み進めることができた。

2)、時代、とくに1984年という年代は、二人とも30歳になりかけるところであり、また、読み手である私にとっても、重要な年代であったということはできる。個人的なメモはすでに「湧き出ずるロータススートラ」という短文にまとめておいたので、繰り返さないが、29歳時点での自分にはとても興味ある。そして、登場人物たちにそのイメージをオーバーラップさせながら読んでいる自分がいる。

3)、天吾は、進学塾で数学を教える人気講師でありながら、休日には小説を書いている文学青年である。ここに右手に「科学」、左手に「芸術」を抱えた一人の存在がある。この青年が、ブラックライターとして「空気さなぎ」のリライトを担当することによって、「意識(あるいは)神秘」へと誘われる。いままさに神秘の扉を開こうとしている。この設定には大いに関心を持つことができる。

4)、当ブログは、プログラマー、ジャーナリスト、カウンセラーという三つの職業の融合、あるいは、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネス、というメディアの三つの側面、あるいは、科学、芸術、意識(または神秘)などの三つのカテゴリ、そしてその具象化であるフロイト、ヘッセ、グルジェフの三人など、秘数3をたよりに、1、あるいは0の発見に努めてきた。現在は、なんと北山修、村上春樹、中沢新一(あるいはケン・ウィルバー他)という、あまりに無謀な比喩をつかいながら、試掘を繰り返しているところである。

5)、村上春樹は、この「1Q84」で、科学、芸術、神秘の融合を描こうとしているかに見える。あるいは、科学や芸術を通じて神秘へたどり着こうとしているかに見える。見事に神秘の中に消えていくのか、芸術の領域にとどまるのか、軟弱な読者でしかない私には、現在のところよく分からない。しかし、今後ハルキ・ワールドを読み進めるとしたら、その辺の関心を維持しながら、前後関係を意識しつつ読み進めることになるだろう。

6)、当ブログは、各カテゴリを108で締めることにしている。今回のこのエントリーで「表現からアート」カテゴリへの記事数は106となる。残るはあと二つ。どのような形でこのカテゴリが終了するのか、興味深い。ただこのカテゴリがもってきたテーマは次なるステージへと引き継がれる必要があるだろう。どのような形に引き継がれるのか、そこも興味深い。

7)、パソコンのソフトウェアのOS、そしてそのOSのもっとも最初の始まりとなるカーネルの部分がもっとも大切なところなのだが、小説「1Q84」のカーネルの部分にあたるのはふかえりが口承した「空気さなぎ」だった。当ブログにおけるカーネルはなんであろうか、と思いめぐらすと、「アガータ:彼以降やってくる人々」がそれにあたるのではないか、と思う。思えば、この言葉がやってきたのは1984年に遅れること2年、1986年であったことを考えると、当ブログは当ブログなりに、すでに「リトル・ピーブル」たちに見張られていたことに気づくのである。

<5>につづく

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