羊をめぐる冒険
「羊をめぐる冒険」
村上春樹 1982/10 講談社 単行本 405p
Vol.2 918★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
1970年11月25日のあの奇妙な午後を、僕は今でもはっきりと覚えている。強い雨に叩き落とされた銀杏の葉が、雑木林に挟まれた小径を干上がった川のように黄色く染めていた。p18
私たちの世代なら、この日、1970年11月25日の「あの」奇妙な午後を、覚えていない人はあるまい。それは1995年3月20日の朝とか、2001年の9月11日の夜、などとともに、人生の中の記憶のベスト10の中に数えられても不思議でないほどに、大変な一日だった。
この小説だけではなく、村上作品全体を通じて、場所や時間はとくに限定されてはいないといいつつ、つねに、その書かれた年代や状況について、つねに気になるように設定されている。私も、一連の小説を読みながら、断片的な記憶の破片が、地底から舞い上がってきてキラリと光り、妖しい存在感を示す瞬間を何度も体験した。
仮に、表の表、表の裏、裏の表、裏の裏、という表現があるとすると、名刺や履歴書などに書く自分というものが表の表になるだろう。そして、読書ブログというかたちであれ、自由に振舞おうとする自分は、表の裏、的な存在と言える。ところが、これらの一連の小説を読みながら気がつくのは、自らの裏の表の部分が、すこしづつ、すこしづつ、妖しい間接光にあぶりだされながら、その生息地域を主張し始めていることである。
小説を読みながら、裏の表を意識するとすると、さて、裏の裏、とはなんだろうか。表の表、といいつつ、それはひとつの虚構、フィクションに過ぎない。名刺や履歴書に、どれほどの自分が書いてあるというのか。読書ブログといいつつ、そこに書きとめられた数万の言葉も実は、どれほどの「真実」が書いてあるかなど、書いている本人にもわかりはしない。
さて最初からフィクションだ、虚構だ、嘘だ、作りごとだ、とわかっていたとしても、そこを鏡としてつかうなら、そこに映し出されるのは、必ずしも不実である、とばかりも言えない。むしろ、虚構やフィクションに映し出されたからこそ、真実として浮き上がってくることもある。そこに気がついてみれば、それでは、裏の裏とはなんだろうか。陰極まって陽になる、陽極まって陰になるように、裏の裏こそ、本当の真実だ、などということがあるだろうか。
「羊をめぐる冒険」は村上作品の長編としては3作目にあたり、この小説の続編に位置する「ダンス・ダンス・ダンス」などは、本来、あとから読まれるべき小説であったようでもある。しかし、かならずしも、小説そのもののストーリーを追いかけることを第一義にしていないのであれば、読まれる順番にはとくにこだわる必要もなかろう。
むしろ、これら一連の作品群を読みながら、自らの中に存在する「裏の表」たるべき世界をプロボークするとするならば、むしろ、このような断片的な、ないまぜ的な読み方は、効果的とさえ言える。すくなくとも読み進めていて不都合はない。
「幻想のように聞こえますね」
「逆だよ。認識こそが幻想なんだ」男は言葉を切った。p165
1982年に書かれたこの小説は、過去を引きずっている。60年代、70年代は、まだまだソーカツされてはいなかった。
「君たちが60年代の後半に行った、あるいは行おうとした意識の拡大化は、それが個に根ざしていたが故に完全な失敗に終わった。つまり個の質量が変わらないのに、意識だけを拡大していけばその究極にあるのは絶望でしかない。私の言う凡庸さというのは、そういう意味だ。しかしまあどれだけ説明しても君にはわからんだろう。それに私もべつに理解を求めているわけじゃない。ただ正直に話そうとしているだけさ」p166
私は、村上春樹という人の名前をほとんど知らなかったし、知ろうとしなかった。今気付いてみれば、むしろ、一生懸命避けてきたのではなかっただろうか、と思う。少なくとも、この時代1982年の頃、私は「小説」を必要としていなかった。私の身の回りは、むしろ「小説」的なことでいっぱいだった。表の表や、表の裏を生きながら、すぐ傍に裏の表があることはつねに意識していた。つまり、ハルキワールドは必要ではなかった。
では今ではどうなのだろう。今、それを必要としているのだろうか。心底から考えれば、多分、それは、やっぱり必要ないのだ。千歩譲って、仮に裏の表が必要だったとしても、それはハルキワールドでなくても構わないのだ。なにか他のものをみつくろってあてがえば、それですむように思われる。しかし、そう思うだけであって、やはり、この位置を占めるのは、結果としてはハルキワールドでしかなかったのだろう。
「じゃぁ」と僕は言った。「たとえば僕が意識を完全に放棄してどこかにきちんと固定化されたとしたら、僕にも立派な名前がつくんだろうか?」
運転手はバックミラーの中で僕の顔をちらりと見た。どこかに罠がしかけられているんじゃないだろうかといった疑わしそうな目つきだった。「固定化といいますと?」
「つまり冷凍化されちゃうとか、そういうことだよ。眠れる美女みたいにさ」
「だってあなたには既に名前があるんでしょう?」
「そうだね」と僕は言った。「忘れてたんだ」 p210
この小説、読みつつだんだんと評価があがり、五つ星になった。そして、いつの間にかレインボーカラーになった。
「そのあとには何が来ることになっていたんだ?」
「完全にアナーキーな観念の王国だよ。そこではあらゆる対立が一体化するんだ。その中心に俺と羊がいる」 p383
だいぶ前に、うちの奥さんもこの小説を読んだらしい。だけど、何が書いてあったんだっけ、忘れてしまった、とか。私もこの小説に何が書いてあったのか、いずれ忘れてしまうのだろうか。でも、この小説を「読んだ」という記憶はしっかりと残るだろう。
これで、「風の歌を聴け」から「ダンス・ダンス・ダンス」までの6冊を読了したことになる。あとは、「国境の南、太陽の西」 、「ねじまき鳥クロニクル」 、 「スプートニクの恋人 」を読めば、ひととおり村上春樹の長編には目を通した、いえるところまでいく。ふう、もう一息。でも「ねじまき鳥」なんて長いなぁ、分厚い奴が3巻セットになっている。
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