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2010/01/07

世界は村上春樹をどう読むか <2>

<1>よりつづく

世界は村上春樹をどう読むか

「世界は村上春樹をどう読むか」 <2>
柴田元幸他 2006/10月  文藝春秋 単行本 315p

 この本こそ、目下の当ブログが見つけようとしていたクラウドソーシングとしての「ハルキワールド」の尻尾になるかもしれない。少なくとも、ほとんど何事も知らないままその作業を始めたのだが、直感的に言って「これだけは、村上さんに言っておこう」では、あまりに「ファン感謝デー」になりすぎているし、「思春期をめぐる冒険」では、あまりにハルキニストとして、自らの世界に小説を引き寄せすぎている。適度な距離感と、周囲を見渡す余裕が必要だ。

 その点、この本は注目に値する。世界の村上春樹翻訳者たちが名前を並べている。そしてシンポジウムなどの報告も適度に紹介されている。

 わたしは、1980年代には村上春樹を呼んでいたはずである。だが多くの文芸評論家がそうであるように、90年代に入るともう読むことをやめてしまった。巷にはハルキ・ブームを当て込んでさまざまな解釈本や研究所が溢れていた。ハルキについての本を出すと必ず売れますよと、編集者から親切な助言を受けたこともあったが、心はもっと別な方角に向いてしまっていた。

 どうしてだろう。今から考えてみると、ひとつには80年代に、アメリカという社会と本格的につきあうようになってからである。彼が描いているある種のアメリカが、急速に陳腐で凡庸なものに思えてきたことを、わたしは素直に告白しておきたいと思う。だが別の理由を思いつくことも不可能ではない。わたしはそもそも都会的とか距離感とか達観とか個人主義とかいう言葉に、関心を喪失してしまったのである。

 わたしが村上春樹についてふたたび関心をもつようになったのは、2000年を過ぎてからのことである。もっともこの場合の感心は、正確に言うと彼の作品というよりも、彼の存在のあり方をめぐるものだった。

 かくも国際的にベストセラーになった日本作家とは、いったいいかなるものなのか。それ川端康成や三島由紀夫の翻訳が海外で評価されるのとは、どう異なっているのだろうか。わたしは行く先々の国で、ハルキが翻訳され愛読されていると知った。

 香港では、ハルキを理解できるのは、日本と同じく高度な大衆消費社会を実現させた香港だけだと言われたことがあった。そしてわたしにはまったく予期できなかったことだが、韓国では何十種類もの翻訳が海賊版で刊行され、90年代初頭には村上の影響を受けてそのエピゴーネンとして作家活動に入った「ハルキセデ(春樹世代)」といった小説家たちまで登場していたのである。そしてわたしは、本稿の冒頭で記した自分の予想がみごとに外れたことを、ある快感とともに受け入れるのだった。p249y 四方田犬彦

 四方田は1953年生まれだから、たぶん私と同学年。時代体験的にはおなじような道筋をたどっているだろう。もっとも私は、最近まで村上春樹と村瀬春樹、ふたりの春樹の違いにまったく気づかなかったのだから、比較しようがないほど、頓珍漢である。

 もっとも村上龍と村上春樹、ふたりの村上の違いは知っていた。村上龍はたしか1976年の群像の新人賞を取ったときに、私は、日本にギンズバーグの「吠える」が誕生したと思った。翌年だったか、芥川賞を取ったときには、当然だろうと思った。しかし、その後、インドに渡った私は、急速に「文学」作品に対する関心を失った。

 たぶん村上春樹が登場したのは1979年の頃で、それ以降の「小説界」については、まったく知らないと言っても過言ではない。もっともそれまでも決して詳しくないし、いまでも進んで読もうとも思っていない。しかし、現在私が村上春樹に関心を持ち始めたのは、この「彼の作品というよりも、彼の存在のあり方」をめぐるものであることは間違いない。

 この本には多くの人々が関わっている。アメリカ、フランス、マレーシア、ハンガリー、ノルウェー、韓国、カナダ、ロシア、ポーランド、インドネシア、ブラジル、ドイツ、デンマーク、チェコ、台湾、香港、イタリア、セルビア・モンテネグロ、タイ、中国、などなど、多くの国々に村上春樹を紹介した翻訳者たちが顔を並べている。まさに圧巻である。

 日本の関係者も四人並んでいるが、1954年、1954年、1952年、1953年生まれ、というように、きわめて私と同じ学年の世代がこの本に関係していることも、なんとも心強いものを感じる。同時代人的にこの本を読めたことをうれしく思う。

 当ブログはまず、この本をクラウドソーシングとしての「ハルキワールド」の典型と見る。この研究、この報告から、何かが見えてくる気がする。しかし、本当のところは、当ブログの主点は、「ハルキワールド」にはなくて、「クラウドソーシング」にある。つまりきたるべき真なる意味の「クラウドソーシング」に向けての、まずは第一報告、第一成功例としての「ハルキワールド」としての認識である。一般的な言葉使いとは、違っているかもしれない。それはいずれ調整する。しかし、現時点での当ブログの関心は、そのようになっている。

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