« 村上春樹の「1Q84」を読み解く<1> | トップページ | 「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? »

2010/01/06

現代フロイト読本 <4>

<3>よりつづく 

現代フロイト読本(2)
「現代フロイト読本2」 <4>
西園昌久 監修 北山修 編集代表 2008/07 みすず書房 単行本 p403

 現在、机の上には、この「現代フロイト読本2」と、「ヘッセへの誘い」と、「海辺のカフカ 上」がある。こちらを読みすすめ、飽きたらあちら、気を取り直して、今度はこちら、と、移り気のまま、目を移動させている。自分の中では思考のチャンネルが反応したり、1ページ1ページを画像として捉えていたり、あるいは、心地よい眠気を誘ってくれたりする。勝手気ままな読書は、何かを運んでいるのか、単に漂流しているだけなのか、すでに沈没していることさえ気づかないでいるのか。

 同じ、書物というメディアでも、持っている意味は相当に違う。すべてを一元的に並べて同列のもとすることはできない。しかしながら、それらは日本語で書かれていて、近くの図書館から借りてきて、自分のブログのネタになりそうだ、という意味では、まったく一連なりのステップストーンのひとつひとつでしかない。

 まずインターネットがあり、ブログ機能があった。そして公立図書館があり、近年、図書館ネットワークが発達した。この二つの要素が、当ブログの大きな推進力である。すでにその威力は我が身を持って体験した。しかし、ここにきて、世の中の人はどんな本を読んでいるのだろう、私はそれを読んでどんな感じがするのだろう、というレベルの視点だけでは、当ブログはどんどん減速してしまうだけだろう。

 小森健太朗「ネメシスの哄笑」09/05/02からスタートした当ブログのカテゴリ「表現からアート」も、あと一冊を残して定量の108に達しようとしている。ドストエフスキーやトルストイ、リチャード・バックやヘッセを変遷しながら、今は村上春樹でその幕を閉じようとしている。さて、村上春樹については、これから少しづつひもといて行こうとしているのだが、今後はどのカテゴリにて読んでいけばいいのだろうか。

 当ブログは、カテゴリを多く作ることはあまり好ましいことだとは思っていない。できれば、同時進行するカテゴリを3つ程度に押さえていきたい。最終的には、カテゴリは一つしかない、というところまで絞ろうと思っているのだ。

 とするならば、「表現からアートへ」カテゴリが終了したあとに残されるのは、「地球人として生きる」 「クラウドソーシング」「私は誰か」、の三つのカテゴリしかない。「地球人として生きる」カテゴリは、最近は疎くなってはいるものの、政治や経済、環境問題も含めたかたちで具象的なテーマを扱おうとしている。今後はどう展開するかわからないが、すくなくともいずれまた活発になってくる可能性もある。

 「私は誰か」カテゴリは、当ブログのメインのテーマであるし、最終的にはこのカテゴリに集約されるものであるので、ここに村上春樹をぶち込んでも特に違和感はない。だが、最適だとは思えない。逆に言えば「私は誰か」を追っかけるなら、まどろっこしく村上春樹などを読んでいる必要は、本当はない。

 さて、三つ目の「クラウドソーシング」だが、もともとは、常にIT関連、インターネット関連として存在してきたカテゴリ達の後裔として、「クラウド・コンピューティング」としてスタートしたものだった。最新の技術やら、ネット社会の動向などについての書籍を収めてきた。

 しかしながら、このところ、当ブログは急速にその分野から足を遠のけつつある。ITやインターネットの技術的な進化が一時的な踊り場状態にあるのではないか、という推測と、どこまで追っかけてもキリのない技術革新と情報流動。これらを1老ブログ子が追っかけていくことは、しょせん最初から無理がある。

 そこで途中からカテゴリ名を「クラウドソーシング」へと変更した。この意味は大きい。同じクラウドでも、片や「雲」であり、片や「群衆」である。日本語おけるカタカナ表記は同じでも、英語ではまったく違う単語だ。つまり当ブログにおいては「雲」→「群衆」へと、方向転換したのである。

 しかるにこの「群衆」という翻訳とともに、その意味合いもまだ本当の意味でこなれたものにはなっていない。当ブログとしては、初期的に追っかけてきた「マルチチュード」の意味合いも込めているのだが、この本家のマルチチュードも、スピノザやネグリ&ハートを含めた形においても、いまひとつ推進力を失っている。

 つまり、このまま放置すれば「クラウドソーシング」カテゴリは座礁し、沈没してしまう可能性もある。現在総数44。残る64個の空きスペースはそのまま意味を失ってしまう可能性もある。

 そこで、当ブログとしては、「表現からアートへ」カテゴリの後継として「クラウドソーシング」カテゴリを活用することに決めた。この方法が一番よさそうだ。「フロイト 精神分析」を「私は誰か」という手術台の上で「分析」していくように、たとえば今後は、村上春樹を「クラウドソーシング」という広場でみんなと語り合う。

 つまり、一作家・村上春樹、一小説「1Q84」、という、ぶつ切りの読み方ではなく、村上春樹・的な広がりそしてその一連の小説をとりまく、同時代的なもの、そのようなものを意識しつつ、一個人と群衆、一作品と世界、という対峙を追っかけてみようと思う。

 思えばこの「現代フロイト読本」も、「ヘッセへの誘い」も、一書物としては、「クラウドソーシング」の所産であると思える。OSリナックスの各ディストリビューションが存在するのは、それを支える各パーティがあったればこそである。OSとしてのリナックスは、すでにその創始者リーナス・トーバルスの手を離れて「クラウドソーシング」によって運用されているように、フロイトも、ヘッセも、すでに「クラウドソーシング」によって、現代の21世紀社会で運用されている。

 早晩、村上春樹も、ひとつの「クラウドソーシング」の核のひとつになろう。いや、すでにそうなっている可能性がある。当ブログが今後村上春樹を追いかけていくとすれば、この小説を離れて拡大傾向のある「ハルキワールド」を追いかけていくことになるだろう。つまり、小説家・村上春樹と、クラウドソーシングとしての「ハルキワールド」は、当ブログにおいては、明確に峻別されていく必要がある。

 ということは、フロイトにも同じことが言える。「フロイト 精神分析」というお題は二つの方向性を持っている。一つはフロイト著「精神分析入門」と、その一連の書物や研究、という意味。もうひとつは、フロイトを契機にスタートした、ひとつのディストリビューション・パーティとしての「クラウドソーシング」としての「フロイト 精神分析」である。

 ただ、すでに「クラウドソーシング」としてのネーミングとしては「フロイト 精神分析」はラベルが古すぎている。その意味合いを忘れることなく、重要なポイントと居続けながらも、この分野のラベルは「ブッタ達の心理学」とならざるを得ない。つまり、当ブログにおいては、「フロイト 精神分析」は、次第に「ブッタ達の心理学」の中に、解体され、吸収されていくことになる。

 この「現代フロイト読本」は、老舗レストランのシェフ達の「意地」が見える、一冊である。好著である。しかるに、やはり100年も経過すればほころびが見える。「城」を造ったつもりが、いつの間にやら、そこが「牢獄」となってしまい、出たくても出られないという悲哀も感じられてしまうのである。

 この本には随所随所に「ブッダ達の心理学」への芽が見える。その意味では、要再読の一冊(いや二冊組だった)であることは疑いようがない。

|

« 村上春樹の「1Q84」を読み解く<1> | トップページ | 「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? »

44)私は誰か」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 現代フロイト読本 <4>:

« 村上春樹の「1Q84」を読み解く<1> | トップページ | 「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? »