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2010/01/21

ザ・シークレット   ロンダ・バーン

ザ・シークレット
「ザ・シークレット」
ロンダ・バーン /山川紘矢他訳  2007/10  角川書店  単行本 318p
Vol.2 922★☆☆☆☆ ★☆☆☆☆ ★☆☆☆☆

 現在、当ブログは、村上春樹追っかけにやっきとなっている。いまさらというべきか、ようやくというべきか、なんにせよ、そういうことになっている。いままで数十冊を集中して読んだし、まだ手元に十数冊ある。図書館をくまなく探せば、まだまだハルキ本は数十冊でてくるはずである。このまま思考が途切れなければ、一気に村上春樹をおっかけてみたい。

 だが、その間にも、さまざまな引力の強い本が図書館で見つかったり、自分の本だなから出したり、前から気になっている本を購入したりと、必ずしもハルキワールドだけにどっぷりと浸かっているわけでもない。

 そんな中、書店のトンデモコーナーならともかく、公立図書館にて「ザ・シークレットを超えて」「ビヨンド・ザ・シークレット」なんていう本があったりしたので、以前にそれらについてのメモを残しておいた。今回はその大本の「ザ・シークレット」があったので、なにはともあれ借りてきておいた。正直言って読むほどの本でもないのだが、返却日も近づいてきたので、パラパラとめくり、メモだけは残しておこうと思う。

 成功哲学というか、ポジティブ・シンキングというべきか、この手の本は昔からある。秘密めいて書かれているが、決してそれは秘密でもなんでもなく、ごくありふれた手段である。この手のメソッドを使いたい人は使えばいいし、その効果がないとは言えない。金銭欲や物資欲、あるいは名誉や他者からの尊敬、豊かな暮らしなど、情動的に人間を動かそうとする力は、たくさんある。

 この本は、ロンダ・バーンの名前が表紙に書いてあるだけで、翻訳者の名前は表紙に書いていない。多分、翻訳者の名前が表書きしてあると、何割かの人は手を伸ばすのを遠慮するだろう。いつものこの手の本を多く手掛けているご夫妻が翻訳にかかわっている。わずかこれだけの本なのだから、別に3人で手分けするほどでもないとは思うが、ここにもなんらかの「戦略」があるのであろう。

 どことなく古書めいた、しみのついたような印刷を取り入れている。私の手元に来たものだけがそうなのかどうかわからないが、なにか印刷紙から匂いのようなものさえする。イメージでいうと、むかしむかしあった紙石鹸のような匂いだ。作ったほうは、匂いではなく、香り、と受け取ってほしいところだろうが、まぁ、原書がこういうつくりだったのかどうか、とにかく日本語訳はそういう作りになっている。

 ここから「秘密」をくみ取れと、いう。「引き寄せの法則」とかいうらしい。「金もいらなきゃ、女もいらぬ。わたしゃも少し背がほしい」なんていうコメディアンのセリフを思い出した。人生において、何にもいらないよ、という人はいないだろう。不足なものは必ずある。それを追い続けることは可能だし、まずは不足しているものを充足しようとするのは、ひとりの人間として当然のことだろう。

 この翻訳家夫妻の手によるものをいくつか読んだ。一連の「フィンドホーン」関連本もそうだったし、シャーリー・マクレーンの著書シリーズも確か彼らの翻訳だった。奥さんのほうの講演も実際に拝聴したこともあったし、カモワン・タロットを使った占い風景も拝見した。しかし、まぁ、相性や波長が合う合わないは、個人の趣味によるところが大きいので、あえて私は距離を詰めないできたし、これからもその距離は残ったままになるのであろう。

 どことなく、ロバート・T.キヨサキの金持ち父さんシリーズに重なってくるところもある。いかにもアメリカらしいスタイルだ。これらの本はヨーロッパからはでないだろう。日本でも、さて、どのくらい読まれ、どのくらい評価されていることだろう。一般的に日本ではこの手の本は「軽薄」と見られるのではないだろうか。私はその見かたに賛同するだろう。

 仏陀やユングや、アインシュタインなどの言葉も唐突に、アフォリズムのように引用されている。おいおい、そんな引用のしかたをしてどうする、とギョッとして立ち止まってしまうから、私は「成功」しないのだろうか。もっと「ポジティブ」に思考回路を作りなおす必要があるのだろうか。

 今現在の私は、私自身が「引き寄せた」ものだとするならば、それは確かにその通りなのだろう。いい車には乗りたいが、高すぎる経費を負担したくない、という思いが強いから、私のところにはいい車がこないのだろう。いい住まいを持ちたいとも思うが、いい住まいは、最初は「お城」のつもりでいても、結果としてそれが「牢獄」になることを恐れているから、私のところにはお城は引き寄せられてこないのだろう。

 金も名誉も、すべては欲望を刺激するだろうが、そこにまつわるものどもは、必ずしもよいことばかりではない。恋をすれば嫉妬も湧くし、失恋もある。失恋をしたくなければ、恋などしないほうがいい。まぁ、その通りだ。

 著者は若い(著者紹介の画像によれば)女性で、オーストラリアからアメリカへ移動した人のようである。巻末には30人ほどの関係者の画像が掲載されている。この人々がいわゆる「成功」した人々なのだろうか。すくなくとも、「ザ・シークレット」使用後のサンプルの役割を果たしているのだろう。

 トンデモ本はトンデモ本として、公立図書館にあるかぎりは、今後も、手にとって、めくっては見ようと思っている。もともとあまり数は入庫していない。書店のトンデモ本コーナーにいくと、最近は身も心も萎縮してしまって、手も足もでない。本はた~くさんあるのだが、最近はもう駄目だ。とくに2012年関連とやらは、あまりにトンデモすぎる。

 この本は、当ブログにおいては、どのカテゴリに属するだろう。現在進行している「私は誰か」、「クラウドソーシング」、「地球人として生きる」の、三つのカテゴリのどこにでも入りそうではあるが、どこにおいても、ちょっと否定的な読み方をせざるを得ない。最初から読まなければよかったのかもしれないが、そんなことを言い出したら、ほんとに歓迎すべき本など、ごくごくわずかなものになってしまう。

 批判や誤解もまた、理解や愛情への始まりにつながることもある。いちばんポジティブにこの本を理解しようとするなら「地球人として生きる」カテゴリに入れておくのが無難だろう。多くの人々が関わって、なにごとかのプロジェクトを進めているらしい、ということなら「クラウドソーシング」カテゴリだ。もっともっと批判的にこきおろしてやろう、というなら「私は誰か」カテゴリの境界領域のサンプルとして入れておくことも可能だろう。

 この本からなにごとかの「スピリチュアリティ」を抽出しようという試みはしないでおこう。何事かの「もたれあい」なら、あえてクラウドソーシングという言葉を提供することも止めてこう。地球人として生きていくなら、きれい事ばかりではうまく行かない。金も名誉も、もうちょっとの背も必要だ。まぁ、とにかく生きていくには、このようなバイタリティも必要だろう。なんとかも方便、ということもある。「地球人として生きる」カテゴリに入れておこう。それが今回の結論であった。

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