ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編<2>
<第3部><1>よりつづく
「ねじまき鳥クロニクル」(第3部)鳥刺し男編 <2>
村上春樹 1995/08 新潮社 単行本 492p
とにかくなんとか、この「ねじまき鳥クロニクル」を突破しないことには、パラレルワールド「1QQ5」まで辿り着かない。正直言って青息吐息である。われながら、小説を読む、という意味においては、ずいぶんと我慢強くなったものだと、感心する。一度は目を通した第3部ではあったが、発行された1995年8月当時の自分を考えると、とてもとても、穏やかな気分でこの小説を読む気にはなれなかった。
まぁ、そうは言いながらも、なんとか、読みなおしてみて、でも、やっぱり、これって、ノーベル賞受賞作品までいくような小説ではないよな、と思う。仮に村上春樹が、ノーベル文学賞をとって、さぁ、みんなで「ねじまき鳥クロニクル」を読みましょう、てなことになった時、みんなで、やっぱり凄い小説だったね、とは、私はとてもとても言えない。
途中からでてくる、いわゆるメールでの妻との交信記録などは、2010年の現在、なんの不思議もない話だが、たしかにこの本の書かれた1995年は、12月にウィンドウズ95が発売されたとは言え、まだまだマニアックな世界だった。私なんぞは、ハードディスクのないパソコン(!)を使っていた。パソコン通信もまだまだテキストモードで、電話回線を使っていて、パソコン通信している間は、電話が使えなかったし、情報量に対する通信料は馬鹿高かった。
95年の春から夏にかけては、Oshoに対するマスメディアの誤報道が相次ぎ、そのチェックや各報道機関への連絡に翻弄されていた。あの当時、私たちの仲間ではまだパソコンネットワークは一般的ではなく、ファックス同報通信が主流を占めていた。だから情報量は限られていたが、逆にいえば、このようなマスメディア対策の意味でも、今後はネットワーク通信は絶対に必要だな、と思わされていた時代であった。
あの当時のことを振り返りながら、この村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」第3部を読むと、なるほど、時代は限りなく古い感じはするが、さすがにアメリカに滞在していただけあって、村上がこの小説で書いている通信状況は、決して当時としては時代遅れではない。むしろ、積極的に当時の通信状況を書きとっている、という評価さえ与えてもいい。この小説を読み返し、ようやく、そのような寛容な心を持てた、というべきか。
のちに村上は、ネット上にHPを設定し、いわゆるファン感謝デー的な活動をすることになるのだが、そう言った意味では、積極的に時代を読みとろうとしてたことは間違いない。ただ、この小説は第2部まではなんとかついてきたが、どうも第3部は私ごのみではない。どうしても消化不良の感が否めない。
ある評価では、「海外の読者から広く支持される理由は、村上作品のシンプルさにある」といわれているそうだが、本当だろうか。「普遍的なインパクトがある」というような評価もあるが、はぁ、そのような作品もないわけじゃないが、すくなくともこの「ねじまき鳥クロニクル」第3部に関しては、私は同意できない。
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