『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する<3>
<2>よりつづく
『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する <3>
亀山郁夫 2007/09 光文社 新書 277p
亀山のいうところの「物語層」、「自伝層」、「象徴層」の三層構造のメタファーを借りるとするなら、「1995」が「物語層」で、「1Q95」が「自伝層」、「1QQ5」が「象徴層」と言えなくもない。
つまり、麻原集団事件という「物語」は「1995」で起きた。もっとも物質世界に近く、もっとも散漫な具体性に富んでいる。ところが、実際の実行者たち、たとえば豊田亨などは、自分が「1995」で動いているという実感より、むしろ「1Q95」の自らのバーチャルな世界に近いところで生きていただろう。そして、その意味や原理を考えた時、自らは「1QQ5」につながっている、と想定していただろう。
しかしながら、現象界でみれば、どうしても起きてしまったことは「1995」でしかない。自分は「1QQ5」を信じて、そこに繋がっているという想定のもとで「1Q95」を生きた。「1Q95」が「自伝層」であってみれば、それはそのように確定してもなんら矛盾はない。
もし、伊東乾の呼びかけにこたえて豊田亨がサイレント・ネイビーであることを止め、自らを語るとしても、「自伝層」である「1Q95」を語るしかない。もし語るとするなら、豊田の語る「1Q95」はそれなりに重みのあるものに違いない。しかし、現象界としての「1995」の圧倒的な「物語」の前では、何ごともし得ない。絶望的に豊田の「1Q95」と「1995」は断絶してしまっている。
であるなら、豊田における「1Q95」と「1QQ5」はどうなっているだろうか。ここはむしろ、限りなく強固にリンクしているに違いない。豊田にとっては、もちろん「1QQ5」があったらからこその「1Q95」であったはずである。しかしながら、直面せざるを得なかったのは、圧倒的な「1995」であった。絶句し、サイレント・ネイビーと化す以外に、手はない。誠実に、クリアに、人間として考えた場合、それしかない。そういう立場に、豊田は追い込まれた。
小説「1Q85」において、かの「さきがけ」と名乗る集団と、麻原集団の類似を語る向きもあるが、現在のところ、私は完全に否定しておきたい。麻原集団の麻原集団たるゆえんは3つある。ひとつには、最終解脱者として麻原個人を神格化したこと。本来、解脱というメタファーを「最終」するということは、「解脱」というメタファーを廃止する、ということであるはずである。しかるに、ここをかの集団は逆方向に爆走してしまった。
最終解脱とは、本来、十牛図の十番であるしかない。
十 世間にて (入てん垂手)
足は裸足で、胸ははだけ
私は世間の人々と交わる
服はぼろぼろで埃まみれでも
私はつねに至福に満ちている
自分の寿命を延ばす魔術など用いない
いまや、私の目の前で
樹々は息を吹き返す
私の門の中では、千人の賢者たちも私を知らない。私の庭の美しさは目に見えないのだ。どうして祖師たちの足跡など探し求めることがあるだろう? 酒瓶をさげて市場にでかけ、杖を持って家に戻る。私が酒屋やマーケットを訪れると、目をとめる誰もが悟ってしまう。「究極の旅」 p449
特定の誰か、という人間個人を指定することはすでにできない。まずこれが一つ目。
二つ目には、洗脳システムを採用したこと。つまり教義の確定である。
地下鉄サリン事件を実行したあと、豊田亨は山梨の教団施設に戻り、麻原彰晃に顚末を報告した。そこで麻原は「偉大なるグルとシヴァ大神にポアされてよかったね」というマントラを1万回唱えるよう指示した。豊田は言われた通り、このマントラを1万回唱えた。かなりの早口で唱えても1回2、3秒は掛かる。1万回、回数を間違えないように数えながらこれを唱えるのには3万秒程度の時間を要する。つまり実行犯豊田亨は、犯行の直後8時間「偉大なるグルとシヴァ大神にポアされてよかったね」という言葉を、ろくも寝食もなしに唱え続けたことになる。このような状態で「思考停止した」t切り捨てることは私にはできない。豊田亨「さよなら、サイレント・ネイビー」p97
言葉の内容とか、回数とか、期間とは、あまり重要ではない。ただひたすら、自由な思考を奪い、人間としての尊厳を奪う。ここにも決定的な間違いがある。
そして、三つ目は、組織の確定である。麻原集団は、決して大人数ではなかったが、「信徒番号」として、集団に関わる個人を数として縛った。あるいはまるで国家組織を模したかのような幹部組織を作った。
いわく、科学技術省次官、治療省大臣、大蔵大臣、厚生大臣、法皇内庁長官、総務部長、諜報省大臣、自治省大臣、法務省大臣、建設省大臣、科学技術省大臣、などなど。一橋文哉「オウム帝国の正体」巻末資料参照
どの集団性においても、おおかれ少なかれ、これらの三つの要素は微妙なバランスで利用されているわけであるが、麻原集団においては、礼拝対象、教義、組織、の三つの特性を、極限まで悪用してしまった。ここに、悲惨な物語としての麻原集団「1995」という「物語」がある。
しかしながら、小説「1Q84」における「さきがけ」なる集団には、このような極めて特異な極限状態を私はいまだ見ることはできない。したがって、現在のところ、「1Q84」のジェネシスとして麻原集団を見ることはできない。むしろ、村上春樹書くところの「1Q84」は、たとえば豊田亨などが語るところの「自伝層」=「1Q95」などこそそのジェネシスを求めることはできるだろう。
起源(ジェネシス)について考えることは、今日、有効なことだろうか? 村上春樹の小説、とりわけ今度の新作長編「1Q84」のように、もっぱら<終末>、あるいは<黙示録(アポカリプス)>のテーマをあつあい、起源(ジェネシス)の場所がことさら空白にされている作品について、その源泉なり、ソースなりを問うことに、なんらかの意味が見出せるだろうか?
「1Q84」では村上はオウム真理教をモデルとして、終末論を教義とするカルト宗教の<脱構築>をこころみた。鈴村和成「村上春樹・戦記/『1Q84』のジェネシス」p6
ここでの鈴村の断定には納得できない。終末論を「教義」としていることが間違いなのではなく、「教義」というシステムが間違っているのだ。
「1984」における麻原は、まだ自分を「卵」と見ていただろう。彼が見た「壁」は限りなく大きかった。彼の周りに集まってきた個人個人もまた、自らを「卵」と見ていただろう。たとえば、1989年当時において彼らの前の坂本弁護士は、まるで「壁側のエージェンシー・ウッシッシ」にさえ見えたに違いない。
しかし、みずからの「1Q89」を生きていた麻原集団にとって、自らはいまだに「卵」であり、システム化された「壁」の、もっとも忌むべき接点は坂本弁護士である、という短絡に陥っていた。坂本弁護士にすれば、麻原集団こそが「壁」化していて、その集団の三つシステムが生み出すマグネチズムに引き寄せられていく個人こそが「卵」である、と考えていた。
1990年の衆議院選挙でまったく茶番劇を演じてしまった麻原集団は、自ら本体が、既に「壁」化した巨大でなおかつ堅固になりつつあった「卵」という自覚なしに、「壁」へとぶつかっていくことを決意する。いや、もう彼らは「壁」だった。一橋文哉のような陰謀論を借りるなら、どこかで「壁側のエージェンシー・ウッシッシ」と繋がってしまっていたのである。
もし、村上が小説「1Q84」を展開するにあたって、「1995」をテーマとするだけなら、この小説は自滅するだろう。なぜなら、「アンダーグランド」や「約束された場所で」で、その「1995」探求の作業は終了しているからだ。「約束された場所で」の高橋英利などは、「1Q95」から「1995」へ「帰還」したようなことを言っているが、本当は、むしろ彼の立場なら「1Q95」から「1QQ5」へと抜けていくべきではなかったか、を思う。
村上は「1Q84」を通じて「1Q95」を描くだろう。だが、「1QQ5」へと抜けていけなければ、この壮大な小説という文芸システムに意味はない。そしてつよく「200Q」を撃たねばならない。「1984」の「物語層」から、「1Q95」の「自伝層」へ、そして、21世紀の「象徴層」=「20QQ」へと、突き抜けてほしい。
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