『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する<4>
<3>よりつづく
『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する <4>
亀山郁夫 2007/09 光文社 新書 277p
「第一の小説」を思い出してみよう。ここでの象徴層の最大のドラマが、第2部にあったことはいうまでもないことである。主題の軸はおそらく三つあった。イワンとアリョーシャの世界観の対立をなぞるかたちで「大審問官」とぞ島の「談話と説教」という巨大な対立軸が存在していた。まず、イワンの世界では、次のような二項対立の問題が提示されていたはずである。
1)キリストか、専制か
2)善か、悪か
3)自由か、パンか
わたしたちの歴史は、この三つの二者択一からつねに後者を選んできたというのが、イワンの根本的な認識である。これがすなわち「象徴層」のドラマだったのである。p190
とするなら、第二の小説「続編」においては、キリストと、善と、自由、を選べばいいのでないか、と短絡するが、問題はそう容易ではない。
大審問官にたいするイエスのキスはどういう意味をもっていたのか、承認のキスか、否認のキスか、読者も大いに判断に迷うはずである。(略)このドラマが、象徴層における議論の根本にあった。そして闘いは、二者択一的なものではけっしてありえなかった。そう、ドストエフスキーは、その双方を選んだ、つまりそのキスには二重の意味が含まれていたと考えることができる。
キリストと大審問官の和解を、善と悪の和解を、そして自由とパンの和解を-----。p191
であるなら続編「第二の小説」の象徴層のドラマはどう展開するのか。著者は自問自答する。
そこでわたしがいま示すことができるのは、ただ一つ、「大審問官」伝説にしめされた自由かパンか、個人か全体か、あるいは人間の愛にかかわる、もうひとつの議論のあり方である。p192
第一の小説が、あれはあれですべて完結したのだ、と見ることも可能であるし、第二の小説「続編」があったはずだと考えることにも妥当性がある。そして、空想的かつ妄想的であると自嘲しながらも、著者は「続編」のひとつのサンプルを提示する。
「第二の小説」では、コーリャが「第一の小説」ドミートリーのように表舞台に立つ。影の主役として「第一の小説」のイワンのようにアリョーシャがいて、この二人をつなぐ象徴k亭な存在としてリーザが配置される、そういう形が自然である。
つまり「第二の小説における「物語層」のストーリーは、コーリャの皇帝暗殺計画と、それにかかわるアリョーシャの人間的「成熟」の物語となる。
いっぽう、「象徴層」は絶対権力と自由、テロルとその否定、科学と宗教などの対立軸を中心に展開される。そしてその奥底には、つねに「性」の問題が意識されていることを忘れてはならない。p259
もし、村上春樹「1Q84」が、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を下敷きにしているとして、しかも失われてしまった第二の小説「続編」足りえようと努力する、と仮定したばあい、ここにおける亀山説をこのまま、とりあえずお借りしたいと思う。
つまり、当ブログにおける「1QQ5」とは何か、という問いに対する、まず手始めのテーゼは、このようになる(だろうか)。
絶対権力と自由、テロルとその否定、科学と宗教などの対立の中で、その奥底に意識される「性」。
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